リチャード・ブローティガン(藤本和子訳)『西瓜糖の日々』

その世界では曜日ごとにちがう色の日の光がさす。金曜は白、土曜は青、日曜は褐色、月曜は赤、火曜は黄金色、水曜は灰色、そして木曜は黒。黒い太陽が空にある間は音がまったく聞こえなくなる。西瓜もとれた曜日ごとに色がちがう。だから、西瓜からとれる西瓜糖には七つの色がある。 ...

永井均『ウィトゲンシュタイン入門』

ウィトゲンシュタインの入門書は二冊目。今回はウィトゲンシュタインの哲学そのものではなく永井均からみたウィトゲンシュタインというのが読みたくて手に取った。 ...

永井均『これがニーチェだ』

『ツァラトゥストラかく語りき』を読んだのはもうはるか昔のことだ。哲学書として読もうとしたわけではなく、リヒャルト・シュトラウス作曲の音楽にひかれて手に取ったのだが、年端のいかぬ子供に理解できるわけもなく、難しい漢字と旧仮名遣いを覚えただけだった。それでも何がかっこよくて何がかっこわるいかを教えてもらえたし(復讐心とか同情はかっこわるい。無条件な肯定がかっこいい)、今でもニーチェは好きな哲学者ベスト3に入っている。 ...

テッド・チャン(浅倉久志訳)『あなたの人生の物語』

SF短編集。 単に発想が奇抜なだけではなく、哲学的に深いテーマを盛り込んでいる。『理解』では脳の働きをエンハンスさせられた男が自分の脳の働きそのものを認識して調整できるようになっているし(つまり彼は「語りえないもの」を語ることができる)、表題作の『あなたの人生の物語』では、エイリアンとの接触から共時的な認識の仕方を学び未来が手に取るようにわかるようになる。『地獄とは神の不在なり』で最後に主人公が感じる「神への愛」も壮絶だ。 ...

永井均『私・今・そして神』

ひとことでいうと、とても「ろましい」本。でもそれほど「しくく」ない。 なぜ私は私で、あなたは私じゃないのか。あなたはあなた?そうかもしれないけど、それは私が私であることとはまったくちがったことなのだ。いま私の前には世界が広がっている。それを目でみて耳できいたりさわってみたりすることができる。でもあなたにはできない。なぜってこの世界は私の世界だから。 ...

難波江和英、内田樹『現代思想のパフォーマンス』

新書で出てくるような哲学の入門書は表面をなでるだけで、読んでもわかったようなわからいないように微妙な気分にさせてくれるだけだし、かといって専門書は読みすすむことが目的になって、読み終わって得られるのはわけのわからない達成感だけだったりする。本書は新書ではあるが、ソシュール、バルト、フーコー、レヴィ=ストロース、ラカン、サイードという6人の思想家の思想のさわりを【案内編】で、主要な概念を【解説編】で、その思想を使って映画、小説などを読み解くところを【実践編】で、きちんと紙幅をさいて説明している。(ラカンをのぞいては)一応わかったように気分にさせてくれた。 ...

大塚英志『物語消滅論―キャラクター化する「私」、イデオロギー化する「物語」』

最近やたら大塚英志の本が出ているなと思ったら、これは『バカの壁』と同じように書き下ろしならぬ「語り下ろし」という形で作られた本とのこと。同じ言葉がやたら繰り返されるのもそういうわけだったか、とはげしく納得。「語り下ろし」だと簡単に読み進められるのだけど、ページ数に比して内容が薄い気がしてしまう。『バカの壁』もそうだったけど、論旨が若干ふらついてしまうせいか、読み終えた後、何が書いてあったかぼんやりとしか思い出せないのだった。 ...

グレッグ・イーガン(山岸真訳)『宇宙消失』

久しぶりの長編SF。 突然夜空の星が消失するという現象から30年後の世界。ナノテクを使ってシナプスを自在に結線し、さまざまな機能をインストールしたり、感情をコントロールすることが可能になっている。元警官で探偵の主人公は、病院から行方不明になった全身麻痺の女性を探してほしいという依頼を引き受ける。 ...

大塚英志『「伝統」とは何か』

「伝統」というのは自然にうまれたのではなく、なんらかの必要にせまられて比較的最近に作られたものだというのは半ば常識といってもいいのかもしれないが、それを実感することは難しい。本書では、日本民俗学の祖である柳田國男の足跡をたどりながら、柳田自身ひいては民俗学というものがいかに伝統を作り出してきたかを示してゆく。といっても一方的に糾弾するのではなく、いい点はいいと評価している。 ...

仲正昌樹『お金に「正しさ」はあるのか』

「正義」と呼ばれるものには二種類ある。ひとつは無限で垂直な正義で、こちらは神(に相当する権威)から与えられる。もうひとつが有限で水平な正義で、個々人間の利害を数値的に調整し、具体的には貨幣の移動という形で実現される。 ...

吉田修一『パーク・ライフ』

上野公園で暮らすホームレスの生活を描いた作品……では断じてない。吉田修一の作品には、きちんとした仕事を持ち(カタカナ系の商品を扱う会社のサラリーマンかガテン系かに大別される)、人間関係をそつなくこなしている人間が多く登場する。『パーク・ライフ』の主人公もバスソープや香水を扱う会社で営業をしているサラリーマンだ。舞台もおしゃれな場所が多く、パークというのは日比谷公園のことだ。 ...

中瀬航也『シェリー酒 知られざるスペイン・ワイン』

シェリーはイギリスのドラマをみているとかなりの頻度で登場する酒で、パブでビール、家でシェリーという感じで飲まれている。たまたま飲んでみたら、さわやかな香りとぴりっとした味わいがすっかり気に入ってしまった。そのとき飲んだのは淡い黄色の「フィノ」と呼ばれるタイプで、その後褐色で梅酒のような濃厚な甘みのある「クリーム」というタイプのものを飲んで、その奥深さに驚かされたのだった。とはいうものの、シェリーについてはスペイン産で、ブドウから作られて、アルコール強化されているという以上のことは知らなかった。せめて基礎的なことくらいは知っておこうと本書を手に取った。 ...

ポール・ヴァレリー(清水徹訳)『ムッシュー・テスト』

すべてのページをめくったが果たして読んだといってよいかどうかわからない。睡眠導入剤として効果覿面なことは保証できる。 ムッシュー・テストとは作者のポール・ヴァレリーが自分自身の性向を極端に押し進めることによって生み出した架空の人物だ。彼は自分の内面をとことんまで追求する。ただの内省ではなく、心に浮かぶ観念を自由に選ぶことにより自分自身を支配することができる。彼は、そうして自分の中で築き上げたものを外に向けて公表することにはまったく興味を示さない。世に認めてもらうことを目的に嫉妬や競争心にかられて書くことはくだらないし、言葉にした瞬間に思考は変質してしまうからだ。ムッシュー・テストを実地でいくようにヴァレリーは20年もの間文学から遠ざかり沈黙を貫いた。 ...

レベッカ・ブラウン(柴田元幸訳)『体の贈り物』

簡単にいうとHIV患者たちとホームケアワーカーである「私」のかかわりを描いた連作短編集だ。徒に感傷的になることなく、「私」のプロとしての作業の様子をときおりおきるとまどいを含めて丹念に描いている。その仕事の手際よさは逆に患者たちの弱々しさ、そして、いくらつくしてももうすぐ死んでしまうという運命を浮かび上がらせる。 ...

イタロ・カルヴィーノ(米川良夫訳)『見えない都市』

マルコ・ポーロの口を借りて語られる55の架空の都市の物語。どの都市もあるはずのない特異な謎をもっているが、どこか似通っていて交換可能であり、(少なくとも物語の中では)実在するかもしれない都市というより都市という記号について語っているように思える。都市の物語の間にときおりはさまれる対話に登場する語り手のマルコと聞き手のフビライも記号の織りなす広大な砂漠の中で途方にくれているようだ。 ...

ウンベルト・エーコ(和田忠彦訳)『ウンベルト・エーコの文体練習』

捜し物をしていたら読まないまま埋もれていた本書を発見した。結局捜し物は見つからなかったので、本書が唯一の収穫だ。 『薔薇の名前』(ぼくは映画でみただけだが)で有名なエーコのパロディー中心の短編集。どの作品も何をどのようにパロディーにしようとしているかくらいまでは理解できるのだが、実際笑えたのはあまりなかった。こちらに文学的・文化的な素養が欠けているのと、難解な文体のものが多いのと、その難解さをうまく翻訳がこなせてないように思われること(実際どうかはわからないが)などいくつか原因があった。 ...

三浦展『ファスト風土化する日本 郊外化とその病理』

「ファスト風土」というのは「ファストフード」のもじりで、いまや全国的にひろがっているファミレスやディスカウント店が立ち並ぶ画一的な生活空間を指している。農村部が郊外化する一方従来の中心街は没落する。人々は車で点から点に移動し、街はその広がりを失う。 ...

バリー・ユアグロー(柴田元幸訳)『憑かれた旅人』

『セックスの哀しみ』に続いて、ユアグローを読む。テーマは「恋愛」から「旅」に変わっているが、主人公(たち)の情けなさはより徹底してきている。それは、最後のストーリーで飛行機事故で幽霊になった主人公がようやくめぐりあった恋人にいわれる一言で語り尽くされている。 ...

バリー・ユアグロー(柴田元幸訳)『セックスの哀しみ』

『一人の男が飛行機から飛び降りる』という本を読んで、ユアグローの作品のファンになった。どれも数ページほどの短編で、夢とも幻想ともつかない不思議な物語がつめこまれていた。 ...

柄谷行人『探求 II』

『探求 I』で他者との関係における命懸けの飛躍を見抜いた柄谷は、今度は「この私」に挑む。 共同体は個人から構成されているのだけど、その個人というのは共同体の中の差異化によってはじめて個としての意識をもつのではないかと昔からいわれていて、その個としての意識そのものも内から外を排除する共同体的なものにすぎない。そんな個-共同体の相互依存とは別の、単独性というものがあるはずだと考えて、柄谷はそれをデカルトが「我思うゆえに我あり」で見出したあらゆる自明性を疑う自己に求めている。そして、普遍的なのは、内部と外部にわけることのできない無限の「間」における、単独的な自己同士の「交通」であるという。 ...