世紀末といってもいささか広くて1890年代から1930年代のナチスドイツによるオーストリア併合までに書かれた作品を扱っている。どれもウィーンに本拠をおいて活躍した小説家の作品ばかり16編。オーストリア併合まで生き延びた人はほとんど亡命しているのが興味深い。 ...
なんとなくSF短編が読みたくなってタイトル買い。70年代末、作者のキャリアがはじまったばかりのときに出た短編集。最近映画化された『エンダーのゲーム』をはじめシリーズものばかり書いている印象だったので、これも通俗的なエンタメSFなんだろうと思ってよ読み始めて、冒頭の『エンダーのゲーム』の短編バージョンを読んでいるときはまだその思い込みをキープしていたが、2編目の『王の食肉』からあれっという感じになった。「王」の命令に従い、住民たちの身体の一部を肉として召し上げていく役割の男「羊飼い」に訪れる運命の変転を描いた作品。そして手がひれの形をした赤ん坊が便器にはさまって溺れかけているという強烈な悪夢的シーン(『四階共用トイレの悪夢』)。グロテスクなイメージの鮮烈さに度肝をぬかれる。 ...
しがない会計士ヘンリー・ウォーは、毎夜自分でルールを決めた野球ゲームの試合に没頭していた。ひとりでサイコロを振って、ユニヴァーサル野球協会に属する全8チームの試合を進行し、記録をつけるのだ。サイコロの目は、野球のプレイだけじゃなく、選手の人生も決める。生や死さえも。選手はそれぞれのパーソナリティーをもち、野球年鑑にはさまざまな物語が記録される。そのうちいくつかは神話になり、独自の宗教や哲学が生まれる。 ...
久しぶりの町田康の短編集。今までの印象だと、町田康の小説の主人公は多かれ少なかれ彼自身を韜晦して変形した自堕落な自己像なんだけど、今回新しい要素が入ってきた気がする。表題作『ゴランノスポン』の貧しく空虚な日常を前向きな意識で虚飾し続ける若者、『一般の魔力』の他者への悪意に凝り固まった逃げ切り世代勝ち組オヤジ。この二人はまさに現代日本の縮図そのままだ。笑いながら、二人の表裏一体となった醜さにうそ寒くなってくる。それはどちらもぼくの中にもあるものだからだ。 ...
まず「怪奇小説」という言葉について説明が必要だろう。 「怪奇小説」は英語でいうと “ghost story”。小説のジャンルを指し示す言葉で年代的にゴシック・ロマンスとモダンホラーの間にくるものらしい。ghost といっても日本でいう幽霊すなわち死者の霊的な存在が出てくるとは限らず、定義するのは一筋縄ではいかないが、とりあえずゴシック・ロマンスのロマンスにもモダンホラーの恐怖にも重きをおかないという消極的な限定はできるようだ。前代のゴシック・ロマンスとの比較でいうと「実際にあったと思われること」を「間接的に語る」という特徴が挙げられる。非日常的な空間での奇想天外な物語ではなく日常の中に紛れ込む異様なものを、必ずしも本人でない間接的な視点から客観的に語るということだ。 ...
奇数章と偶数章で異なった人々による異なった世界の物語が語られる。 「百万年後の未来, 銀河系は二つの世界にわかれていた。融合世界とよばれる、巨大な相互協力的メタ文明と、銀河中央部を静かに占有する孤立世界。孤立世界は融合世界が彼らの領域に侵入することを長らく拒んできたが、旅人がショートカットのために非暗号化データとして通過するのは黙認してきた。ラケシュはラールという旅人と出会う。彼女は、通過の途中孤立世界に目覚めさせられDNAの痕跡でいっぱいのメテオを見せられたという。ラケシュは彼女のチャレンジを受け、メテオがやってきた孤立世界の領域奥深く地図にない世界を見つけようとする。」 ...
書かれた時代も国も違うが直前に読んでいた『ドグラ・マグラ』とひとつ大きな共通点がある。どちらも記憶の遺伝が小説の中の大きな要素として登場するのだ。折も折、ちょうどこの2冊を読んでいるときに、ネズミの記憶が父から子へ遺伝するという研究成果が発表され、驚いた(さらなる研究が必要だと思うが)。 『ハローサマー、グッドバイ』の続編。同じ惑星を舞台にした物語だ。ただし『ハローサマー、グッドバイ』の時代から数百年経過している。大きく違うのが、前作では地球の現代くらいの文明だったのが大きく後退して部族社会になっていること。もうひとつは祖先が経験したことを思い出す能力をほとんどの住民がもっていること。最初、物語に新規性をもたせるための恣意的な設定変更かと思ったが、実は前作をひっくるめた大きな枠組みが隠されていたのだった。 ...
再読なのだが、この小説の主人公のようにほとんどすべて忘れていた。主人公の若い男性が、精神病院の個室でまったく記憶がないまま目を覚ますところからはじまるたった一日の物語だ。 ...
フランス文学には若干苦手意識を感じていたが、ミシェル・ゴンドリー監督による映画『ムード・インディゴ』をみて原作を読んでみたくなった。読んでみたら思ったより映画と同じで驚いた。原作は言葉遊びが多いが、それが一部映像の遊びに置き換えられているが、原作の幻想というか幻覚としか思えない視覚的描写がSFXでちゃんと映像化されていたのだった。 ...
村上春樹の編訳による10の愛に関する短篇集。あまり名前をきいたことのない作家たちの作品を村上春樹が選んで訳した。ひとつは村上春樹自信の作品だ。前半はストレートなラブストーリーで、こういう奇をてらわないシンプルな作品も味わいがあってたまにはいいなと思っているところへ、後半はひねった文章とストーリーの作品があらわれてくる。やっぱりぼくはひねった作品のほうが好きだ。長編小説みたいに離れ離れになってしまう恋人たちの人生の行く末を描いた、ローレン・グロフ『L・デパードとアリエット――愛の物語』。2013年のノーベル文学賞を撮ったアリス・マンローの『ジャック・ランダ・ホテル』。飛行船の上での同性カップルの悲劇を描いた『恋と水素』(ラブストーリーのアンソロジーに同性愛を扱った作品がひとつもないのはかえって不自然に感じられる時代なのだ)。アメリカ人とカナダ人の対比が興味深いリチャード・フォード『モントリオールの恋人』。どれも読み応えがあってすばらしかった。 ...
鬼気迫るとしかいいようがない。ぼく自身悪霊にとりつかれたみたいに夢中になって一気に読んでしまった。『カラマーゾフの兄弟』よりこっちの方がパワフルで普遍的だ。 ...
20人の有名な作家、詩人、画家、音楽家がその人生の中でみたのではないかと思われる夢を数ページの掌編した作品集。みているのはそれぞれの人生を凝縮したような夢だ。だからそれは夢であると同時に伝記ともいえる。たとえばアルテュール・ランボーは切断された片足をかかえながらパリ・コミューンを目指し、ならず者だったカラヴァッジョのもとにキリストがあらわれ、ロートレックは健康な長い足を持ち踊る。 ...
ディストピアマニアとしてはこの作品を読まないままにしておくわけにはいかない。本屋で何気なく探したらちょうどこの新訳がでたばかりというタイミングのよさだった。同じディストピアものでもオーウェルの『1984』とは対極的、こちらは主観的にははるかに楽しい世界だ。 ...
スマリヤンといえばぼくの中では数学パズルの人だけど、この本のテーマは哲学。認識と存在、生と死、魂の永遠性など哲学の定番テーマを、スマリヤンならではの論理的明晰さ、手品でも見ているような意外性、そしてユーモアあふれる筆致で描き出した哲学エッセイ集。半分くらいは複数人による対話形式なので読みやすい。著者自ら哲学の演劇化と呼んでいる。実際上演されるところをみてみたいものだ。ちゃんと数学パズルも含まれている。 ...
まず、ぼくにとってのラッセン的なものとの出会いを語っておく。繁華街を歩いていると、若い女性が通行人に何か手渡そうとしていて、そのとき風邪をひいていたぼくはとっさにティッシュだと思い手をのばすと何かチケットのようなもので、今展示会やっているから中に入れという、その展示会というのがアールヴィヴァン社の悪名高きエウリアン商法との出会いだ。もちろん中には入らなかったので展示されていたのがラッセンかどうかはわからないが。アートがわからない若い男性にそういう商法で売りつけようとしているものという刷り込みがあったせいもあり、ラッセンの作品をまともに見ようと思ったことはなかった。 ...
1951年出版。SFの古典中の古典。何をいまさらという感じだが多分未読。新装版のカバーにひかれて買ってしまった。偶然会った全身刺青の男の背中を見ながら野宿していると、背中の絵が物語を語りはじめるという趣向の18編からなる短編集。書かれた時期からしてもうそんなにセンス・オヴ・ワンダーは感じない。ブラッドベリ独特の詩情をしみじみと味わう、どちらかといえば退行的な読書体験だ。 ...
昭和から現代にかけて、雑誌、レシピ本、映画、ドラマ、小説、漫画の中に描かれた家庭料理の変遷を追いかけてゆく。 ...
ジェーン・オースティンの残した6つの長編小説はどれも恋愛と結婚がテーマで、もちろん実質上の処女作であるこの作品も例外じゃない。 ...
なぜか今年ペソア関連のイベントや出版が立て続けにあって、といってもぼくが知る限りそれぞれひとつずつではあるが、それでもすごいことで、ペソアを題材にした演劇が上演され、本書が平凡社から刊行されたのだ。ぼくは、演劇をみにいって、もちろん本書も購入した。 ...
ぼくには心情的にナショナリズムはわからない。といっても、そういうぼく自身を含めてほとんどの人はコスモポリタン的には生きられないわけで、この国という単位に特別な関心をもつのは当然のことだし、必要なことでもある。広い意味でそれを「ナショナリズム」と呼んでもいいはずで、そういう意味でぼくも「ナショナリスト」のはしくれでもある。まあそんなこんなで本書を手に取ったわけだ。 ...