ロバート・クーヴァー(越川芳明訳)『ユニヴァーサル野球協会』

しがない会計士ヘンリー・ウォーは、毎夜自分でルールを決めた野球ゲームの試合に没頭していた。ひとりでサイコロを振って、ユニヴァーサル野球協会に属する全8チームの試合を進行し、記録をつけるのだ。サイコロの目は、野球のプレイだけじゃなく、選手の人生も決める。生や死さえも。選手はそれぞれ...

町田康『ゴランノスポン』

久しぶりの町田康の短編集。今までの印象だと、町田康の小説の主人公は多かれ少なかれ彼自身を韜晦して変形した自堕落な自己像なんだけど、今回新しい要素が入ってきた気がする。表題作『ゴランノスポン』の貧しく空虚な日常を前向きな意識で虚飾し続ける若者、『一般の魔力』の他者への悪意に凝り固ま...

西崎憲編訳『怪奇小説日和: 黄金時代傑作選』

まず「怪奇小説」という言葉について説明が必要だろう。 「怪奇小説」は英語でいうと “ghost story”。小説のジャンルを指し示す言葉で年代的にゴシック・ロマンスとモダンホラーの間にくるものらしい。ghost といっても日本でいう幽霊すなわち死者の霊的な存在が出てくるとは限らず、定...

グレッグ・イーガン(山岸真訳)『白熱光』

奇数章と偶数章で異なった人々による異なった世界の物語が語られる。 「百万年後の未来, 銀河系は二つの世界にわかれていた。融合世界とよばれる、巨大な相互協力的メタ文明と、銀河中央部を静かに占有する孤立世界。孤立世界は融合世界が彼らの領域に侵入することを長らく拒んできたが、旅人がショート...

マイクル・コーニイ(山岸真訳)『パラークシの記憶』

書かれた時代も国も違うが直前に読んでいた『ドグラ・マグラ』とひとつ大きな共通点がある。どちらも記憶の遺伝が小説の中の大きな要素として登場するのだ。折も折、ちょうどこの2冊を読んでいるときに、ネズミの記憶が父から子へ遺伝するという研究成果が発表され、驚いた(さらなる研究が必要だと思...

夢野久作『ドグラ・マグラ』

再読なのだが、この小説の主人公のようにほとんどすべて忘れていた。主人公の若い男性が、精神病院の個室でまったく記憶がないまま目を覚ますところからはじまるたった一日の物語だ。 『ドグラ・マグラ』がどういう物語かということは実はこの小説自身の中で語られている。この小説が患者のひとりが書い...

ヴィアン(野崎歓訳)『うたかたの日々』

フランス文学には若干苦手意識を感じていたが、ミシェル・ゴンドリー監督による映画『ムード・インディゴ』をみて原作を読んでみたくなった。読んでみたら思ったより映画と同じで驚いた。原作は言葉遊びが多いが、それが一部映像の遊びに置き換えられているが、原作の幻想というか幻覚としか思えない視...

村上春樹編訳『恋しくて - TEN SELECTED LOVE STORIES』

村上春樹の編訳による10の愛に関する短篇集。あまり名前をきいたことのない作家たちの作品を村上春樹が選んで訳した。ひとつは村上春樹自信の作品だ。前半はストレートなラブストーリーで、こういう奇をてらわないシンプルな作品も味わいがあってたまにはいいなと思っているところへ、後半はひねった...

ドストエフスキー(亀山郁夫訳)『悪霊』

鬼気迫るとしかいいようがない。ぼく自身悪霊にとりつかれたみたいに夢中になって一気に読んでしまった。『カラマーゾフの兄弟』よりこっちの方がパワフルで普遍的だ。 ロシア中西部のある地方で立て続けに起きた惨劇のそもそものはじまりから順を追って語られる。語り手は無個性的で穏健さがとりえのG...

タブッキ(和田忠彦訳)『夢のなかの夢』

20人の有名な作家、詩人、画家、音楽家がその人生の中でみたのではないかと思われる夢を数ページの掌編した作品集。みているのはそれぞれの人生を凝縮したような夢だ。だからそれは夢であると同時に伝記ともいえる。たとえばアルテュール・ランボーは切断された片足をかかえながらパリ・コミューンを...

オルダス・ハクスリー(黒原敏行訳)『すばらしい新世界』

ディストピアマニアとしてはこの作品を読まないままにしておくわけにはいかない。本屋で何気なく探したらちょうどこの新訳がでたばかりというタイミングのよさだった。同じディストピアものでもオーウェルの『1984』とは対極的、こちらは主観的にははるかに楽しい世界だ。 人間は完全な人工受精が可...

レイモンド・スマリヤン(高橋昌一郎訳)『哲学ファンタジー』

スマリヤンといえばぼくの中では数学パズルの人だけど、この本のテーマは哲学。認識と存在、生と死、魂の永遠性など哲学の定番テーマを、スマリヤンならではの論理的明晰さ、手品でも見ているような意外性、そしてユーモアあふれる筆致で描き出した哲学エッセイ集。半分くらいは複数人による対話形式な...

原田裕規編著『ラッセンとは何だったのか? ─消費とアートを越えた「先」』

まず、ぼくにとってのラッセン的なものとの出会いを語っておく。繁華街を歩いていると、若い女性が通行人に何か手渡そうとしていて、そのとき風邪をひいていたぼくはとっさにティッシュだと思い手をのばすと何かチケットのようなもので、今展示会やっているから中に入れという、その展示会というのがア...

レイ・ブラッドベリ(小笠原豊樹訳)『刺青の男』

1951年出版。SFの古典中の古典。何をいまさらという感じだが多分未読。新装版のカバーにひかれて買ってしまった。偶然会った全身刺青の男の背中を見ながら野宿していると、背中の絵が物語を語りはじめるという趣向の18編からなる短編集。書かれた時期からしてもうそんなにセンス・オヴ・ワンダ...

阿古真理『昭和の洋食 平成のカフェ飯 家庭料理の80年』

昭和から現代にかけて、雑誌、レシピ本、映画、ドラマ、小説、漫画の中に描かれた家庭料理の変遷を追いかけてゆく。 昭和といっても戦前についてはプロローグで軽く触れられるだけだ。本編は戦後からはじまる。第一章は昭和中期、昭和20年から50年まで。高度成長期で総中流意識が浸透し専業主婦が一...

ジェーン・オースティン(中野康司訳)『ノーサンガー・アビー』

ジェーン・オースティンの残した6つの長編小説はどれも恋愛と結婚がテーマで、もちろん実質上の処女作であるこの作品も例外じゃない。 主人公キャサリンは17歳の少女と書きたくなってしまうが、この作品が書かれた1800年前後のイギリスではふつうに結婚適齢期だったらしい。片田舎で出会いのない...

フェルナンド・ペソア(澤田直訳)『[新編]不穏の書、断片』

なぜか今年ペソア関連のイベントや出版が立て続けにあって、といってもぼくが知る限りそれぞれひとつずつではあるが、それでもすごいことで、ペソアを題材にした演劇が上演され、本書が平凡社から刊行されたのだ。ぼくは、演劇をみにいって、もちろん本書も購入した。 大きく二部構成。前半はペソアの著...

浅羽通明『ナショナリズム——名著でたどる日本思想入門』

ぼくには心情的にナショナリズムはわからない。といっても、そういうぼく自身を含めてほとんどの人はコスモポリタン的には生きられないわけで、この国という単位に特別な関心をもつのは当然のことだし、必要なことでもある。広い意味でそれを「ナショナリズム」と呼んでもいいはずで、そういう意味でぼ...

ガウラヴ・スリ&ハートシュ・シン・バル(東江一紀訳)『数学小説 確固たる曖昧さ』

ルイス・キャロル的あるいはポストモダン的なものを期待して手に取ったが、物語や語り口はきわめてオーソドックス。というよりそれは主役ではないのだ。主役は、数学、そして真理が果たして存在するのかという中二病的な問、この二つだ。 数学に関しては、興味を持ちながらも今まで学ぶ機会がなかった(...

フランク・オコナー短編集

何を隠そう、この著者に注目したわけはフラナリー・オコナーと名前が似ているからだ。それによってフラナリー・オコナーの名前もぼくの記憶に強く刻み込まれることになったので、見事な連係プレーにお見事というしかない。とはいっても、この二人は、名前からわかるように性別はちがうし、生まれた年と...