トマス・ピンチョン(志村正雄訳)『競売ナンバー49の叫び』

今更という気もするがはじめてのピンチョン。長編の中では一番短くて中編といわれることもある本書を手に取った。 物語は案外シンプルだ。1965年のカリフォルニア。28歳の女性エディパは元恋人の大富豪インヴェラリティの遺言執行人に指名され、サン・ナルシソという町に赴く。そこで彼女は、郵便...

コルソン・ホワイトヘッド(谷崎由依訳)『地下鉄道』

今から200年近く前、19世紀前半のアメリカを舞台に、奴隷の少女コーラの逃避行を描いた作品。数年前オバマ前大統領が絶賛していたが、文庫化で値段がさがったのを機にようやく読むことにした。 コーラはジョージア州の農場で奴隷として生まれ育った。理不尽な拷問、レイプなど、不条理小説がそのま...

吉田徹『アフター・リベラル 怒りと憎悪の政治』

唐突に思いついたが、新書の価値を測る指標として参考文献の数というのが有効な気がする。本書について数えてみたところなんと155。実際、その数に下支えされてか、とても説得力のある本だった。 世の中の進歩と自由の拡大を体現し、広い意味ではほぼ常識といっていい位置を占めていたリベラルという...

北杜夫『白きたおやかな峰』

国家をはじめとする集団が幻想であるというのは散々語り尽くされているが、他方個人というのも文化的な構築物に過ぎず、西洋と東洋で云々というのもその対句のように語られることである。しかし、その構築物のはずの個人が否応なしに自動的に立ち上がる場所がある。そのひとつが山岳だ。山岳小説を読み...

獅子文六『てんやわんや』

遠い異国を舞台にした翻訳小説を読むことが多いけど、戦後すぐの日本の地方を舞台にした話ももはや遠さでは負けてないのではないかと思い読むことにした。 1948年から1949年にかけて連載された新聞小説。 主人公犬丸順吉は戦後の東京近辺の殺伐とした世相に恐怖を覚えて、子飼いとして支えていた...

フォークナー(黒原敏行訳)『八月の光』

いつか読もうと思っていたフォークナーの長編にようやくチャレンジ。やはり、最初ははいちばんとっつきやすいという評判の『八月の光』だ。読書でもなんでもきっかけが大事なので、『八月の光』を読むなら八月と思って読み始めたのだが、結局読み終えたのは九月の終わりで、すっかり季節がかわってしま...

若竹七海『依頼人は死んだ』

先日、といってもずいぶんだってしまったが、NHKでドラマ化された葉村晶シリーズの原作を読んでみることにした。本書はそのなかで最初に刊行された作品集。9編からなる連作短編という形をとっている。 ドラマでは、シシド・カフカさんが演じる女探偵葉村晶のクールでタフでハードボイルドな感じと、...

全卓樹『銀河の片隅で科学夜話』

量子力学が専門の物理学者である著者によって書かれた、センス・オブ・ワンダーと詩情のバランスのとれた科学エッセイ集。22のエッセイが、天空編、量子編、数理社会編、倫理編、生命編という5つのカテゴリニーに分類され、収録されている。 扱われているトピックは多様だ。銀河の中心が突然輝きだし...

村上春樹『一人称単数』

2018年7月から2020年2月までに雑誌に掲載された作品を中心にした、8編からなる短編集(表題作の1編だけ書き下ろし)。 各作品から共通項をくくり出すと、自分の過去の作品(未発表のものを含む)がなんらかの形でベースになっているものが3編(もし『石のまくらに』の短歌を含めていいなら...

山本貴光+吉川浩満『その悩み、エピクテトスなら、こう言うね。』

ストア派の中心人物のひとりエピクテトスの思想の入門書。彼は紀元1世紀中頃から2世紀中頃、帝政ローマ期にギリシアで活躍した哲学者で、もともと奴隷の出身から身を立てたといわれている。 ほぼ著者二人のかけあいで構成されているのでとても読みやすい(そして、なんとエピクテトス自身まで登場する...

ケン・リュウ編(大森望、中原尚哉、他訳)『月の光 - 現代中国SFアンソロジー』

『折りたたみ北京』に続いてケン・リュウ編による中国SF短編集。今回は14人の作家による16編の作品が収録されている。 以下に作者と収録作のリストを掲げる(『折りたたみ北京』にも収録されている作家には※をつけた)。 夏笳(※)『おやすみなさい、メランコリー』- 鬱病の人の心のケアをするた...

多和田葉子『百年の散歩』

十編からなる短編集。 作者自身を思わせる語り手の日本人女性が、歴史上の著名人の名前のついたベルリンの通りや場所を、散策する。基本的に、描写されるのは現代の日常風景なのだけど、その場所に積み重なった歴史や、名前のもととなった人物に関する幻想が混入する。後の方の作品になるに従って幻想の...

酉島伝法『宿借りの星』

ありきたりじゃない物語が読みたかった。ありきたりじゃないということにかけては、この本の右に出るものはなかなかないだろう。なにせ主人公マガンダラは四つ脚で歩行し、四つの目で前後を一瞥し、大きな尻尾があるという異形としかいいようがない姿をしている。マガンダラの種族はズァンググ蘇倶とい...

村上春樹『猫を棄てる 父親について語るとき』

村上春樹が初めて自分の父について書いたエッセイ。中くらいの短編の長さだが、刊行にあたって他の作品と組み合わせるのが難しいということで台湾出身の高妍さんの挿絵をつけて単独で出版されている。 村上春樹さんの父村上千秋は1917年に生まれ、2008年に亡くなっている。寺の住職の子として生...

アーサー・C・クラーク(酒井昭伸訳)『都市と星』

一応SFファンのつもりなのにアーサー・C・クラークを読むのは数十年前の『幼年期の終わり』以来超久しぶり。考えてみるとこういう古典的なSFは今まであまり読んでこなかった。 十億年後のはるか未来。人類は一時銀河系に帝国を築くが、『侵略者』との戦いに敗れて、今では人々は地球の半径20-3...

スティーブン・ピンカー(橘明美、坂田雪子訳)『21世紀の啓蒙』

コロナで先の見通しがたたないなか前向きな本が読みたくなった。 「わたしたちは理性と共感によって人類の繁栄を促すことができる」。あたりまえで、ありふれた言葉に思えてしまうが、これこそが啓蒙主義の原則だ。理性は、もうひとつの人間の本性である、「部族への忠誠、権力への服従、呪術的思考、不...

藤井太洋『ワン・モア・ヌーク』

2020年3月東京。コロナが発生せずかわりに原爆テロが発生した世界線の物語。 オリンピックを間近に控え、東日本大震災そして原発事故から9年目の、2020年3月。テロリストにより東京都心で核爆弾を爆発させるという予告がされる。プロローグとエピローグをのぞいた本篇は爆破時刻に指定された...

木田元『反哲学入門』

『反哲学入門』と題されているが、語りおろしということもあり、とても易しく哲学史の見取り図が学べる本。いろいろ哲学書を読み散らかしてきたがまずこの本を読んでおけばよかった。 なぜ「反哲学」かというと、著者(および著者が依拠するハイデガー)によれば、西洋哲学はプラトン以降自然を越えた「...

山尾悠子『ラピスラズリ』

「冬眠者」という冬の間死んだように眠る人々を題材にした連作短編集。 冒頭の『銅版』は、深夜の駅の画廊で、見つけた3枚の銅版画。そこに描かれているのは「冬眠者」たちの謎めいた歴史と生活。プロローグ的な作品で、この銅版のシーンが以降の作品の中で再現されるか示唆される。 『閑話』は一番好き...

スタニスワフ・レム(沼野充義他訳)『完全な真空』

架空の本の書評集。ひとつだけ例外的に実在する本の書評が含まれていて、それはほかでもないこの『完全な真空』の書評だ。その自虐的な手厳しさは別として、この中で本書の内容が的確に紹介されている。ひとつ謎なのが、『テンポの問題』の書評についての言及で、それは本書には収録されてない。本書の...