背表紙に新ロシア文学と書かれているけど、舞台はウクライナで作者もウクライナ人。でも言語はロシア語で作者も元々ロシア出身だからロシア文学でもいいのかもしれない。 ...
前作『望楼館追想』がとても気に入ったので数年ぶりの新作である本書を手に取ってみた。 エントラーラという架空の街のガイドブックという体裁をとりながら、街の名士である双子の姉妹アルヴァとイルヴァの人生を追いかけてゆく。いつかエントラーラを飛び出すことを夢見るアルヴァと家から一歩も出ることができないイルヴァ。正反対の二人だが、ふつうの双子以上の絆で結ばれている。二人はプラスティック粘土を使ってエントラーラのミニチュアを作り上げることに情熱を傾ける。やがて、大地震が街を襲い、粘土のミニチュアは傷ついた人々の心を癒すものとして脚光をあびる。だがそれは一時だけのことだった…。 ...
少なくともこの日本では、サローヤンは徐々に忘れられつつあるようで、過去に文庫化されているはずの作品をほとんどみかけなくなっている。『パパ・ユア・クレイジー』が入手できるのも、作者のサローヤンではなく訳者の伊丹十三が最近なぜか注目されているからだ。でも、その訳はお世辞にいい訳とはいえない。 ...
立心偏に生きると書いて「性」だけど、ちょっと世の中それに振り回されすぎだなと思うことがある。少なくとも男性にとっては、それはそれほど気持ちのいいものではない。だから、多くの男性はもっと気持ちのいいことがあるのではないかと妄想をふくらませ、身勝手な欲望を抱いたりするというのが、本書の洞察のひとつだ。男性としての自分の身体をきたないものと感じる自己否定の気持ちが、さらにその欲望を手に負えないものにしている。 ...
とりあえずこれで、さぼって読んでいなかった村上春樹の作品(少なくとも長編)は読めたはず。はるか以前に読んだ『羊をめぐる冒険』、『世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド』などはもうほとんど忘れかけているが。すばらしかったということだけ覚えている。 ...
夢の中で猫になっていた。それは現実以上にリアルな夢で、彼自身は夢だと思っているものの、ほんとうにそうなのかどうかはわからない。 ...
「次の瞬間、世界でいちばんすきなもの、貨物列車のとどろきと蒸気の音が遠くに聞こえた。ユリシーズは耳を澄まし、列車の動きにつれて地面が震動するのを確かめると、走り出した。この世のどんな生き物より早く(ママ)走っているつもりだった」というパラグラフを読んだら、貨物列車のそばまで一緒に走り出したくなった。 ...
科学(正確には自然科学)は人間の知的活動の中でもっとも成功しているものといっていいだろうが、それじゃ、その科学っていったいどういうもの?といったことを研究している学問も別にあって、「科学哲学」と呼ばれている。 ...
偏狭なナショナリズムをふりかざしてものいう人々はどうしようもないと思うが、それを批判する論調もどこかずれていて、問題の核心に届いてないと思ってきた。タイトルからするとこの本もまたそうした批判本のひとつかと思わせるが、そうではなく、「アイロニー」の歴史的変遷をたどり、なぜアイロニーというすべてを相対化してしてしまわずにはいられない視線から、「ナショナリズム」や「反市民主義」のようなロマン的なものがうまれてきたかを解き明かしている。 ...
このところ村上春樹の作品を集中的に読んでいるけど、英米文学をあらためて日本に移入しているという感じを強く持つ。明治の文明開花期に一度そういう仕事が集中的になされたのだけど、いつの間にか日本文学は鎖国的に独自の道を歩むようになっていった。そこに新しい血(「犬の血」かもしれない)を注ぎ込んだのが村上春樹だと思う。村上春樹の登場人物たちはまるで翻訳小説のようなしゃべり方をするし、メンタリティーも過度に個人主義的だ。でも、なぜかエビアンでも飲むみたいに違和感なく一気に読めてしまう。 ...
ことあるごとに日本という国はどこか変だと思うぼくではあるが、もしフランスで暮らすことがあれば、激しいカルチャーショックに見舞われ、日本最高とつぶやくであろうことも、また間違いのないところだ。 ...
目にしているのは都市の姿だ。 長い冬の夜。物語は23時56分のファミリーレストランからはじまる。ふつう三人称で語られる小説の語り手は決して表面に現れず、特権的な高みから淡々と物語るものなのだけれど、この物語では、視点の移動があからさまに語られ、彼(ら)あるいは彼女(ら)は自分(たち)のことを「私たち」と呼ぶ。彼(ら)あるいは彼女(ら)は純粋に視点だけの存在だが、感情をもっている。 ...
物語の骨格だけたどると15歳の少年の精神的成長を描いた典型的なビルドゥングスロマンなのだけど、メタフォリック、つまりメタファーとしてしか理解し得ないようなキッチュでオカルティックな出来事が次から次へと連鎖する。たとえば空から魚やヒルが降ってきたりだとか、夜な夜な少女の幻影が部屋を訪れるだとか、カーネルサンダースそっくりの老人にとびきりの美女を斡旋されるだとか、死人の口から出てくる怪物を退治するだとか……。それぞれが何のメタファーなのかは語られないし、示されもしない。 ...
人は死ねば「煙か土か食い物」になる。そうなるまでの間はとにかく全速力で駆け抜けるしかないといわんばかりの、スピード感あふれる文章。その速度の中で、さまざまなことが起きる。 ...
迷宮としての池袋。現代の迷宮は自分がどこにいるかはわかっているものの、目的と行先がわからないのだ。 主人公の男性は、殺人を犯した旧友が語ったという言葉の「声」を求めて、最後に彼とあった場所、池袋の風俗店に続く階段を探す。だが、その場所の代わりに得られたのはまた別の場所を探す目的で、目的は、ゲドンという喫茶店、ビデオケーブルを売る店、暗がりに落ちた500円玉、謎めいたクラブ、とどんどんずれていき、巡礼の道標のようにときおりあらわれる赤いチョークで書かれた線に導かれながら、池袋の街をさまよい続ける。 ...
論理というのは不思議だ。たとえば数学の証明問題でいうと、情報はすべて最初に与えられていて、途中で、実はAはBの父親だったということが明らかになったりは決してしない。それをいくつかの自明な推論規則、たとえば「PならばQ」と「Pである」から「Qである」を導き出すようなことをくりかえすと、最初はまったく見えなかった結論がでてくるなんて、神秘としかいいようがない。証明なんて面倒なことをしなくて、最初からわかってもよさそうなものなのに。 ...
わざと内容を想像させないようにしたかのような邦題がついているけど、原題は「The Abortion: An Historical Romance 1966」、Abortion つまり妊娠中絶なんていう生々しいタイトル。でも中身は、なんといっていいかわからないような、とらえどころのない物語だ。『西瓜糖の日々』同様静けさに包まれているけれど、あそこまでのすごみはない。 ...
誰もがおもしろいと思うように、ぼくもまたアガサ・クリスティーの作品は大好きなのだけど、手に取るのはほんとうに久しぶりだ。クリスティーの世界に耽溺している時期には、愛着をもっている探偵の最後の姿をみたくなかったが、もうすっかり遠ざかってしまった今だからこそ、読むことができる本だ。 ...
少子高齢化のおり、人文系の学問に対して、そんな役立たないもの学んでどうするのというような風当たりが強くなりつつある。本書はその標的のひとつといっていい歴史学について、存在意義を解き明かそうとしている。具体的には、ほんとうに史実を明らかにできるのか、そしてそれは社会の役にたつのかという、二つの問いに答えようとしている。 ...
三編からなる短編集なのだが、なぜかそれぞれフォント、レイアウトが異なっている。 熊の場所 40×16行。ふとクラスメートのカバンの中に猫の尻尾を見つけてしまった「僕」。人は自分の恐怖の源泉に立ち戻らなくてはならない。それも早ければ早いほどいい。そうしないと、その場所は「熊の場所」になってしまう。村上春樹の『七番目の男』が語ったような、ある種説話的な物語。「熊の場所」だらけのぼくには耳が痛い。 バット男 23×18行×2段組。倉持裕がこの作品を脚色した舞台をみて、この本を買おうと思った。「バット男」とは正義のヒーローではなく、弱者がさらなる弱者を虐げるという連鎖の最下層に位置する人間をさすいわば象徴的なキャラクターだ。舞台では、何度も姿をあらわしたが、小説では、どんでん返し的な意味合いを含ませながら、ようやく終わり間際に姿をかいま見せる。主人公の「バット男」になりたくないという祈りは小市民的だけど、今の時代では、とても切実なのがわかる。 ピコーン! 39×17行、文字が小さくて下の余白が大きい。躁病的に元気のいい女性の一人称語りが気持ちいい。でもその語りとはうらはらにこれは喪失の物語だ。そして、その喪失にきちんと向き合うために「ピコーン!」と閃くという物語でもある。 ★★★ ...