ジョセフ・ギース/フランシス・ギース(青島淑子訳)『中世ヨーロッパの都市の生活』

いわゆる暗黒時代からぬけだして中世文化が花開いた西暦1250年という年の、フランスシャンパーニュ地方のトロワという町における、人々の生活をさまざまな角度から描き出している。 ...

荻上チキ『ウェブ炎上―ネット群集の暴走と可能性』

Net News全盛の昔から、「炎上」というものには目がなかった。あっちのニュースグループが燃え上がっていれば行ってにやにや笑い、こっちでぼやがあがっていればおもしろいからもっとやれと心の中であおっていた。その当時は、「炎上」といっても穏やかなもので、燃え立たせているのは多くても数人で、たいていの場合は正当な理由があって燃えていたが、最近は「炎上」の規模も大きくなっているし、理不尽な場合も増えている(それは笑えない)。昔のネットは研究者を中心とした会員制クラブだったが、今は誰もが参加する。だから、社会で起きる理不尽なことはそのままネットの中でも起きるのだろう。本書でも紹介されているが、個人的に一番衝撃を受けたのはイラク人質事件で、無根拠なデマが増殖する状態をみて、ぼくのネットを見る目は180°とはいわないが、90°くらい変わった。 ...

アルフレッド・ベスター(渡辺佐智江訳)『ゴーレム100』

アルフレッド・ベスターの名前すら知らなかったSFファンとしてはだめだめなぼくがいうのもなんだが、SFというジャンルの本質はまだみたことのないものをみせてくれるところにあると思う。ところが本書は、そう思っていたぼくですら度肝(って何だ?)を抜かれるほど斬新だった。 ...

ヘンリー・ジェームス(蕗沢忠枝訳)『ねじの回転』

ゴーストストーリー、怪談といえばその通りなんだけど、かなり毛色がちがう。 幼い兄妹と召使いが暮らす古い館に家庭教師として住み込むことになった女性から見た一人称で物語は語られる。亡霊たちは主人公にしか見えない(子供たちにも見えるようなのだけど、最後までよくわからない)。それで、途中からは、すべて主人公の妄想と偏見なのではないかという疑念にとらわれてしまう。 ...

円城塔『Self-Reference ENGINE』

その瞬間、宇宙は無数の宇宙に分裂し、時間や因果律が錯綜して頭の中の弾丸が銃の中に戻ろうとしたり、家の中に別の家が生えてきたりするようになった。その出来事は「イベント」と呼ばれている。それぞれの宇宙の出来事は巨大知性体という何台ものコンピュータの演算によって起きるようになっている。そもそも、「イベント」は巨大知性体が、自然現象を利用して演算を行おうとした結果引き起こされたのだ。 ...

亀山郁夫『『カラマーゾフの兄弟』続編を空想する』

『カラマーゾフの兄弟』を読んで一番驚いたのは、この分厚い大作が未完で作者のドストエフスキー急死により「第二の小説」が書かれずに終わったということだ。確かに回収されていない伏線があったり、本編と関係ないのにやたらページをとって語られている登場人物がいたりするし、何より作者による序文にその旨がしっかり書かれている。 ...

ドストエフスキー(安岡治子訳)『地下室の手記』

なにごとにもきっかけが必要で、『カラマーゾフの兄弟』は光文社古典新訳文庫版が出始めたのをきっかけに読もうと思ったのだが、なかなか完結しなくて待ちきれず、結局新潮文庫版を読んだのだった。京の仇を江戸で討つではないが、『地下室の手記』は光文社古典新訳文庫版を選んだ。はるか昔に読んだような読んでないような微妙な作品だが、いずれにせよまったく覚えていなかったので、新鮮な気持ちで読めた。 ...

米澤穂信『さよなら妖精』

タイトルから漠然と、超自然的なフェアリーストーリーとミステリーが融合するシュールな作品を想像していたが、ウェルメイドな青春群像ミステリーだった。 ...

ポール・オースター(柴田元幸訳)『ガラスの街』

「あてもなくさまようことによって、すべての場所は等価になり、自分がどこにいるかはもはや問題でなくなった。散歩がうまく行ったときには、自分がどこにもいないと感じることができた。そして結局のところ、彼が物事から望んだのはそれだけだった――どこにもいないこと。ニューヨークは彼が自分の周りに築き上げたどこにでもない場所であり、自分がもうそこを二度とそこを去る気がないことを彼は実感した」の「ニューヨーク」を「東京」におきかえると、ぼくのことかと思ってしまったが、「歩くこと」がこの小説のテーマの一つだ。 ...

阿部謹也『ハーメルンの笛吹き男 伝説とその世界』

鼠退治の報酬を払わなかったばっかりに笛吹き男の笛の音に導かれて子供たちが連れ去られてしまったという『ハーメルンの笛吹き男』の物語は単なるおとぎ話ではなくある程度実話らしい。事件が起きたのは1284年6月26日、いなくなった子供の数は130人だという。ただし、鼠退治の話は後世の付け足しで、笛吹き男の正体や子供たちが消えた理由については何も伝えられていない。 ...

村上春樹『1973年のピンボール』

二度目か、ひょっとしたら三度目に読むのかもしれないが、ぼくの頭の中に残っていたのは双子の存在とゴルフ場の風景だけだった。1973年秋、東京、そしてそこから遠く離れた海辺の街で、平穏でありながらずっと心に残りそうな日々が何気なく通り過ぎてゆく。大きな出来事がおきないだけに、かえってひとつひとつのシーンが輝いているように感じる。貯水池での配電盤の葬式。養鶏場に78台並んだピンボールに同時に電源が入る。あこがれの3フリッパーのスペースシップとの心のこもったやりとり。そして、最後は二つの別れ。ひとつは夕方の6時海辺の街のバーで、もうひとつは11月の日曜日の朝バス停で。少なくとも、これらのシーンは絶対忘れない……ことを希望する。 ...

コニー・ウィリス(大森望、他訳)『わが愛しき娘たちよ』

アメリカの女性SF作家コニー・ウィリスの12編からなる短編集。 冒頭の『見張り』には長編『ドゥームズデイ・ブック』のキヴリンやダンワージィ先生が登場している。『ドゥームズデイ・ブック』は大学の実習でペスト禍のまっただなかの中世にタイムスリップする話だったが、こちらは第二次大戦のロンドン大空襲。長さが短い分だけ悲惨さもパワーダウンしていて安心した。てっきり、こちらが後発かと思ったが、実は『ドゥームズデイ・ブック』の10年前の作品だった。そのころから『ドゥームズデイ・ブック』の構想を温めていたことになる。 ライトなコメディーからシリアスな終末もの、フェミニズム的なテーマを扱ったものまで、多種多様。SF的なセンス・オブ・ワンダーが前面に出てくるタイプではないので、短編より長編向きの小説家のような気がした。 ...

池谷裕二『進化しすぎた脳 中高生と語る[大脳生理学]の最前線』

大脳生理学の最新のトピックを中高生向けに講義したものをまとめた本。文中にでてくる彼らの応答から察するに、中高生といってもぼくを含めたその辺の大人よりよっぽど優秀だった(慶應義塾ニューヨーク学院高等部の生徒たちとのこと)。専門的になりすぎず、かといって細部を省略しすぎず、聞き手の興味のつぼを刺激し続ける話術はさすが大脳生理学を研究しているだけのことはあると思った。ひとつひとつのエピソードがとても興味深いのだが、その中からひとつだけ紹介しよう。 ...

レイモンド・チャンドラー&ロバート・B・パーカー(菊池光訳)『プードル・スプリングス物語』

ハードボイルドの旗手レイモンド・チャンドラーが急死したため未完のまま遺された作品を、30年後に同じハードボイルドのスペンサーシリーズで有名なロバート・B・パーカーが完成させた。未完といっても、チャンドラーが遺したのは全41章中の4章だけで、書かれているエピソードはおおむね以下の3つだけだ。 ...

永井均『翔太と猫のインサイトの夏休み―哲学的諸問題への誘い』

中学生の翔太がインサイトという猫に導かれるように、さまざまな哲学的問題について考えてゆく。たとえば、「実はぼくらは培養器の中の脳で、現実はそこで見せられている夢」という考えには意味があるかどうかとか、「他人に心があるか」とか、「ぼく」という存在の特別さとか、善悪の基準の妥当性とか、「ものごとがわかる」というのはどういうことかとか、自由意志はあるかとか、そして死を体験することはできるのかとか。 ...

舞城王太郎『スクールアタック・シンドローム』

そろそろ現代日本の小説も飽きてきたなと思いつつ手に取った本書だけど、やっぱり舞城王太郎はおもしろい。 珍しく残虐描写のない『我が家のトトロ』のほかは、耳をかみ切って飲み込んだり、高校で生徒や教師が623人殺されたり、女子中学生が女子中学生の首の骨を一撃で折って殺したり、生き返ったり、という相変わらずの展開なのだけど、なぜかそこには不思議な穏やかさや希望のようなものがあるのだった。 ...

阿部和重『グランド・フィナーレ』

ナボコフの『ロリータ』は、道徳を越えたある美学の果てにある、人生におけるある種の哀しみについて教えてくれたけど(ぼろぼろ泣けてしまった)、同じようにロリコン男の饒舌な一人称で書かれた本書の表題作は、確かにそこに哀しみはあるものの、どちらかといえば表層的で、道徳でも美学でもない別のものを示そうとしながら、その途中で唐突に終わってしまっている。 ...

小寺信良×津田大介『CONTENT'S FUTURE ポストYouTube時代のクリエイティビティ』

考えてみると「コンテンツ」というのはおもしろい言葉で、テキスト、音楽、イメージ、動画という一見異質なものを包含している。共通するのは形がないということで、それらに形を与えるのが「メディア」というものだ。ぼくらは「コンテンツ」を手に入れる場合、「メディア」に対してお金を払ってきた。そもそも「コンテンツ」という呼び名も「メディア」の「中身」ということからきている。 ...

堀江俊幸『雪沼とその周辺』

雪沼というどこにあるとも知れない地方の街の周辺を舞台に、そこで暮らす平凡な人々の現在と過去の記憶が交錯する連作短編集だ。最終営業日の小さなボーリング場の主人、スキーにやってきたのが縁で料理教室を開いた小留知先生が遺した最期の言葉、段ボール工場の田辺さん、書道教室を営む陽平さん、絹代さん夫妻、背が低いけど特殊な能力を持つレコード店経営の蓮根さん、控えめな中華料理屋安田さん、消火器販売会社のサラリーマン香月さん。 ...

福岡伸一『生物と無生物のあいだ』

生命とは何か?細胞からなる、DNAを持っている、呼吸によってエネルギーを作る、というのは属性をあげているだけだし、「自己を複製するシステム」というのも一見もっともらしいけど、生命の柔軟性をとらえきれていない。 ...