ドストエフスキー(安岡治子訳)『地下室の手記』

地下室の手記

なにごとにもきっかけが必要で、『カラマーゾフの兄弟』は光文社古典新訳文庫版が出始めたのをきっかけに読もうと思ったのだが、なかなか完結しなくて待ちきれず、結局新潮文庫版を読んだのだった。京の仇を江戸で討つではないが、『地下室の手記』は光文社古典新訳文庫版を選んだ。はるか昔に読んだような読んでないような微妙な作品だが、いずれにせよまったく覚えていなかったので、新鮮な気持ちで読めた。

二部構成。前半はもったいぶったような似非哲学的議論が続く。その当時主流だった合理主義的で啓蒙的な思潮を批判して、人間が非合理な意志や欲望に支配される存在だということを強調しているようにみえるのだけど、こういうアンチテーゼは、合理主義が有用なものであるかぎり残り続けるのだろう。そういいながら、語り手は合理的に話そうと努力していて、それだから、ぼくは彼に好感をもったのだった。『カラマーゾフ』の登場人物で、スメルジャコフとフョードルを嫌いになれなかったのも、彼らが合理的だったからだが、この地下室の語り手は彼らに似ているような気がする。

後半は、過去の回想になって、物語が動き始める。前半の好感や同じく無意味な自意識をもつものとしての同情は、実例によって一気に崩れさった。この主人公のことをいうのに、現代の日本にはぴったりの言葉がある。「中二病」だ。確かにつまらない連中には違いないんだろうが、過去の友人や使用人にあたりちらし、自己満足のため娼婦を翻弄したり、かなり最低の人間だ。

ほとんど痛い笑い話になってきた、物語はラストでまた変身する。終わり近くで、「俺たちは、人間であることさえも――本物の自分固有の肉体と血液を持った人間であることさえも、重荷に感じている始末だ」というのは、リアルな人生を避けて、書物やネットなどのバーチャルな世界に閉じこもっている文化系人間への痛烈な批判だ。ここで、今まで語り手に感じてきた嫌悪が同類嫌悪だということに気がつくようになっているのだ。