竜巻とともに空を飛べることのできる一家がやってきておたくの末の娘朝ちゃん(彼女も空を飛べる)とうちの息子を交換したいと申し出てくる。すったもんだの末最終的には、朝ちゃんの意志でその交換は成立することになる。 ...
タイトルから想像できるように二冊の短編集を一冊にまとめた本。でも、ぼくは半分以上読み終えたときについうっかりなくしてしまい、結局二冊買うことになった。 ...
一応時代小説といっていいのだろうか。主人公の牢人掛十之進が通りかかった旅の父娘の父の方をいきなり斬り捨てるところからはじまる。その理由を問われて、掛は彼らが腹ふり党というカルト宗教団体の一味だから斬ったという(でも間違いだったということがわかる)。 ...
夏目漱石と内田百閒は期間は短いけど一応師弟関係にあり、夏目漱石の『夢十夜』と内田百閒の夢幻的な諸作品が比較されたりするけど、作品からうかがえる気質は、漱石がパラノイアなのに対し、百閒は明らかにスキゾで対照的なような気がする。 ...
読む前は神町は想像上の地名だと思っていたが、作者阿部和重の故郷であり、山形県東根市に実在するらしい。そこで2000年夏に起きたあまりにも凄惨で汚穢に満ちた数々の出来事を克明に綴った物語だ。もちろんすべて架空の出来事だが、リアルに細部を積み上げた構想力、想像力にはただただ感心するしかない。 登場人物の内面描写は欲望と打算ばかりで、視点がころころ変わるため、特定の登場人物に感情移入ができず、かえってその不安定さが、続きを読まなければというエネルギーを生んで、ほんとうに夢中になって一気に読んでしまったのだった。 ...
本書の「ルーツ」である村上春樹の『中国行きのスロウ・ボート』は、短編集のタイトルになるくらいで初期の代表作にちがいないのだけど、なぜか何度読んでも内容を忘れてしまう。『二〇〇二年』を読むにあたり、まず『中国行き』の方を読み直してみた。 ...
正直、「女優になるため上京していた姉・澄伽が、両親の訃報を受けて故郷に戻ってきた。その日から澄伽による、妹清深への復習が始まる。高校時代、妹から受けた屈辱を晴らすために……」という裏表紙に書かれたあらすじにはまったく惹かれず、本谷有希子の芝居(それはほんとうに素晴らしかった)をみた興奮の余波で買ったのだが、いい意味で幾重にも裏切られた。 ...
難解なところはどこもないけど徹頭徹尾不可解な小説集。 カフェなんかで少し離れた席の会話が漏れ聞こえてきて、部分的にとてもおもしろいんだけど、何のことを話しているのかさっぱりわからない。興味をもって聞いているうちに情報量は増えていくが、整合しない点もそれにつれて増えていく。いつの間にか声が聞こえなくなって、謎とともにとりのこされる。という状況を経験したことが誰しもあるかと思うが(ぼくだけか?)、それと同じような気分にさせてくれる本だ。その宙づり感が気持ちいい。 ...
TBSラジオで放送されているLifeのファッションリーダー、charlieこと鈴木謙介さんの著書。ラジオでは、若干あいまいだったり、本筋からはずれそうなリスナーからのメールや他の出演者の発言を、巧みに(しかも嫌みにならずに)整理して方向づけし直す能力に感心することしきりだけど、本書でもその能力がいかんなく発揮されて、論旨がとてもわかりやすく整理されている。 通信インフラの発達、およびその上を流れる情報量の増大で、ぼくたちの生活はヴァーチャル、リアル問わず格段に便利になって、いわば最適化されつつある。それによって、個人の生や、社会のあり方も変化を被らざるを得ない。個人は、趣味や価値観を共有する者たちだけの偏狭なセカイに閉じこもり、自分の欲望が不在のまま、宿命として決定された人生を生きているように思えてくる。社会からは、同じ社会を構成しているという共感・公共性が失われ、民主主義を守ろうとすれば、公共性を制度的に強制するか(工学的民主主義)、あるいはばらばらであることを是認してそれでも立ちゆくような自律的な制度をつくりあげるか(数学的民主主義)、どちらかの道しか残されていない。 ...
1906年に酔っぱらって甕に落ちた猫が、意識を取り戻すと1949年(文庫の裏表紙に1943年とあるのは間違い)になっていた。たどりついたのは苦沙弥ならぬ五沙弥先生の家。夏目漱石の正典猫と同様、五沙弥家に集まる風変わりな人々の会話を猫の視点から収集する。 ...
アラブは地理的というより心理的に日本からとても遠い場所で、なじみのあるものといえばテロと石油とアラビアンナイトくらいだと思うが、本書は、その中のアラビアンナイト的な題材から想像力を膨らませ、緻密に書き上げられたファンタジーだ。 ...
舞城作品には珍しく動ではなく、静からはじまる。人里離れた山ん中の静けさ、そこで書の道を究めようとする、背中にたてがみのある少年。だが、そこに不可避的に暴力が侵入してきて、少年の隠された獣性を呼び覚ます。 ...
『吾輩は猫である』で猫が水甕に落ちてそのまま死んでしまうのは忍びなかったので、続けて、その猫が生き延びて活躍する物語を読むことにした。なんと猫の飼い主だった苦沙弥先生が東京の自宅で殺されていたのだ。それを遠く離れた上海で、名無しの猫君およびその仲間の猫たちが推理する。 ...
ラストで猫が死ぬ話はやだなと思ってずっと避けてきたのだけど、考えてみればラストで人が死ぬ話は数多く読んできたし、この間などはラストに犬が死ぬ話までも読んでしまった。猫だけ特別扱いするのも理に適わないので、このあたりで目を通しておくことにした。 ...
ぼくより下の世代の作家の作品を読むようになったのはここ数年のことだけど、その中で好き嫌いを越えて、ほんとうにすごいと思えるのは、舞城王太郎くらいかもしれない。半端なくバイオレンスで、そりゃもうグロいんだけど、ぼく、きみ、セカイというセカイ系のシチュエーションと、現代文学のメインストリーム的な多層的な物語構造をなめらかに接続できるのは、この人ならではだ。 ...
時は明治末、挿絵画家野々村某は、真新しい独逸製の写真機に目がくらみ、朋友富永丙三郎、理学者水島鶏月、屈強で勤勉な女中サトとともに地底探検の旅に出ることになる。 ...
タイトル買いしたのだけど、読みたかったのとは対極的な本だった。まず前提となる現状認識がちがっていて、筆者は日本人がもともともっていた宗教心はすたれて無神論的な態度が主流になっていると考えているのに対し、ぼくは今でも宗教心は日本人の行動を陰ひなたで律していると感じている。それで、ぼくはその宗教心というものを分析的に明らかにしてほしかったのだけど、筆者はそういう分析的な態度を西洋の一神教由来のものだと切り捨てている。ついでに、ぼくが仏教を評価するのはその合理性なのだけど、筆者はその原始的なエネルギーや日本の風土との親和性をもちあげる。 ...
現代ハードボイルドの書き手たちが、フィリップ・マーロウのキャラクターを借りて書いた短編15編(文庫化にあたり序文や作品8つが割愛されている)と、チャンドラー自身が残したマーロウが登場する唯一の短編(そのほかのマーロウが登場する短編は発表後に探偵の名前がマーロウに書き換えられている)が掲載されている。 ...
花や植物の名前はほとんどわからない。いまさら全般的に覚えようとしても手遅れな気がしたので、まずは雑草の名前をどうにかしようと、本書を手に取った。街を歩いてよく目にしているはずだし、観葉植物は知らなくても、雑草の名前がわかることは、ちょっと気が利いているように思えたのだ。 ...
写真の代わりに写真家の書いたことばをまとめた写真集といえばいいだろうか。大正から現代までの日本の写真家25人の文章が収録されている。一応、名前を列挙すると、野島康三、萩原朔太郎、安井沖治、福原信三、山端庸介、土門拳、木村伊兵衛、田淵行男、濱谷浩、常盤とよ子、高梨豊、森山大道、荒木経惟、植田正治、桑原甲子雄、大辻清司、東松照明、長野重一、一ノ瀬泰造、内藤正敏、中平卓馬、石内都、鈴木清、畠山直哉、星野道夫。写真という文化についての教養がない(と書くと技術はあるみたいだが、もちろん技術もないし熱意すらない。誇れるのは惰性だけ)ぼくには半分以上知らない人だ。 ...