はるか昔、清水俊二訳で読んだことはあるが、上品に食べ残された魚のように、頭とおしりの部分がかすかに記憶に残っていただけで、肝心なところはすっかり抜け落ちていた(村上春樹によれば清水俊二訳にはわざと訳されていない箇所が多くあるらしい)。そのときはシリーズ最高傑作という評価に同意しつつも、のどの奥にひっかかった小骨のように割り切れなさを感じたような気がする。だが、今回村上春樹訳で読んでみてそういう割り切れなさがあるからこそ傑作なのだいうことがわかった。 ...
「つれづれなるままに、日くらし、硯にむかひて」の「硯」を「PC」に換えれば、一種のひきこもり系ブロガーだ。だが兼好法師が書きつけたのはチラシの裏的な内容ではなく、ソースを重視し、文献や実体験に裏打ちされたことを書いていた。だから、当時の人間だけでなく、現代に生きる人間にさえ届いているのだろう。 ...
恩師の葬儀で久しぶりに集まった学生時代の友人四人は、ふと十年前に謎の死を遂げた男のことを思い出す。それぞれの思いをこめた語りの中で、彼の死そして生に新たな光がなげかけられる。その光が新たな闇を呼び、そして光と闇はメビウスの帯のように幻想の中でつながる。 ...
美人女子学生が14世紀のイギリスにタイムトラベルする話だというから、少女漫画的なほんわかSFを想像していたのだけど、それはあまりに大きな勘違いだった。 ...
『「世間」とは何か』では日本の文学作品をてがかりに「世間」の正体にせまったが、本書では「世間」からの離陸に成功したヨーロッパの姿を通して「世間」をとらえようとしている。 ...
1968年。激しさが最高潮に達した学生運動の中で、「彼」は警官相手に殺人未遂を犯し、中国へ密航する。そこで待ちかまえていたのは文化大革命の混乱だった。辺境に下放されていた「彼」は、蛇頭の船に乗り30年ぶりに東京に帰ってくる。 ...
日々東京を歩き回っているぼくにとって、東京の街について語られる言葉は他人事としてはきけなくて、まるで「家族」の話をされているような微妙な感情をいだいてしまう。 ...
日本独自編集の短編集の第3集。オールタイムの作品から選んでいるので、インパクトが小さい作品か、科学的に難解な作品が多くなってきているのは仕方ないところだろう。 ...
二年ぶりに読む伊坂幸太郎。2007年の夏に映画が公開されるそうだ。 ドライでユーモラスな文体に、奇抜なシチュエーションと巧みなストーリー構成。とてもおもしろくて途中からは胸を高鳴らせながら読んだのだけど、読後感はいまひとつだった。 ...
日本人は見ず知らずの他人への信頼感が希薄で、同じ社会を構成しているという一体感がない。というより、「社会」とそれを構成する「個人」といった西洋的な考え方(と一応書いてみたがぼくは「社会」も「個人」も西洋でたまたま最初にうまれただけで普遍的なものだと考えている。もちろん「世間」もそうだ)が(まだ?)根付いていないのだ。「社会」や「個人」に代わって、日本では人のまわりを「世間」が重層的にとりまいている。「世間」の中で位置を占めることによって人ははじめてアイデンティティを得ることができるが、同時に人をその位置に束縛するものでもある。 ...
いろんな人のお薦めの一冊にあがる本だけど、読みにくかったから読み通したことを自慢したいだけなのではないかという邪念をうんで、なかなか読もうという気になれなかったのだが、年末から読み継いできてちゃんと読み終えることができた。 ...
ギャッツビーはやるせない夢にとりつかれ、虚飾で自分を飾り立てようとした男だ。その彼にグレートなところがあるとすれば、その夢に向かってひたすらまっすぐ進んでいき、あと少しで手にいれるところまでたどりついたところだろう。だが、その夢は彼以上ににせものだった。 ...
「小さな政府」、「規制緩和」のような(新)自由主義的政策以外の選択肢がなくなっている日本の政治状況。民主主義を通して実現すべき目標には「自由」のほかに「平等」もあるはずなのに、日本では憲法の条文をみても「自由」ばかりが尊重されている。日本の左派勢力は「自由」と「平等」両方を実現する的なことをいっていたが、本来この二つは両立するものではなく、相反するものなのだ。そういうトンチンカンな左派が凋落するともに、アメリカの後追いをするように右派が「自由」にコミットしはじめ、日本は「自由」一色になってしまった。(ついでにもうひとつ日本で勘違いされているのが個人主義という言葉で、これは自分を含めた全個人を尊重する立場を指している。自分だけを尊重するのは利己主義というもので、個人主義とは相反するものなのだ。) ...
今を去ること永遠回帰半周ほど前、新潮文庫版の『ツァラトゥストラかく語りき』を舊字體や辞書にも載っていないような難解な用語、あふれかえる注釈に苦しめられながら、どうにか最後まで読み通したが、本はぼろぼろに黄色くなり、結局得られたのは妙な達成感だけだった。 ...
これまでは個人あるいは集団がとりつかれた巨大な魔が引き起こす陰惨な事件を描いてきた京極堂シリーズだが、今回はごくありきたりの連続毒殺事件だ(それがありきたりに感じらるのもどうかしているが)。そしてその魔もとてもとても小さなもの―雫としてあらわれる。全体的にとてもこじんまりしているともいえるが、そのこじんまりさがとてもよかった。 ...
人の言葉(といっても英語だけだが)がわかる犬ミスター・ボーンズが、飼い主ウィリーと死別する前後の遍歴をたどるロードムービー的なストーリー。ポール・オースターらしく夢と現実が交錯しながら物語が語られる。ぼくは犬より猫派だが、猫と旅をするのは難しい。旅をするならやはり犬だ。 ...
舞台は王子駅周辺でなく都電荒川線をもう少し三ノ輪橋方面に進んだ、下町の賑わいと場末のわびしさが交錯するあたり。とりたてて物語的な出来事がおきるわけではない。大学の時間給講師や翻訳で日銭を稼ぎ時間だけはたっぷりある「私」と、この街にすむさまざまな人々との交流が淡々と描かれている。そして、それと同じくらいの比重で描かれているのが終戦前後に書かれ今ではほとんど読まれていない島村利正の小説についての話題だ。このあたり、同じ著者がパリ郊外の日常を描いた『郊外へ』と同じテイストを感じる。ただ、視線はこちらの方が暖かで、ものごとを地についた低い位置から見上げようとする意志を感じる。 ...
詩集というのは本の先頭のページから最後のページまで順序よく読んでいくものではなく、もしそれで最後のページを閉じたとしても、決して読んだという完了形にはならないものだ。そんなこともあって、今までここでは詩集をとりあげなかったのだが、今回はあえて整然とページをめくる読み方をしてみたので、あえてここに「読んだ」という言葉を記すことにする。 ...
本書には日本の敗戦をめぐる評論が三つ収められている。本全体のタイトルにもなっている最初の『敗戦後論』に主たる論旨が書かれていて、残りの二つはその補論的な位置づけだ。 ...
『銀河ヒッチハイクガイド』のシリーズもいよいよ最終巻。なぜ全五作からなる三部作といわれるか、その理由がわかった気がする。シリーズの特長ともいえる切れ味の鋭いギャグは前作よりさらに影をひそめ、諦観や一種宗教的なさとり、センチメンタリズムが表面に躍り出ている。といってもラストをのぞいては特に悲惨な事件が起きるわけではないのだが、全体のトーンがやりきれなさに満ちているのだ。もっとも、それが必ずしも悪いわけではない。ギャグよりすばらしいやりきれなさもあるだろう。ところが本書のやりきれなさは、どこか俗っぽいし、ただやりきれないだけだった。 ...