阿部謹也『「世間」とは何か』

「世間」とは何か

日本人は見ず知らずの他人への信頼感が希薄で、同じ社会を構成しているという一体感がない。というより、「社会」とそれを構成する「個人」といった西洋的な考え方(と一応書いてみたがぼくは「社会」も「個人」も西洋でたまたま最初にうまれただけで普遍的なものだと考えている。もちろん「世間」もそうだ)が(まだ?)根付いていないのだ。「社会」や「個人」に代わって、日本では人のまわりを「世間」が重層的にとりまいている。「世間」の中で位置を占めることによって人ははじめてアイデンティティを得ることができるが、同時に人をその位置に束縛するものでもある。

文化の違いといってしまえばそれまでだし、日本が遅れているだけと断定するのは何の解決にもなっていない。いずれにせよ、「世間」というものについてもっとよく知る必要がある。ぼくらは空気のように「世間」の存在に慣れてしまっていて、それを対象としてとらえることに成功していないのだ。

惜しくも2006年に亡くなった社会学者阿部謹也氏がこの問題に取り組んだのが、本書だ。氏は日本の古典文学の系譜をたどることによって、「世間」のなりたちを歴史的に探る道をとる。古代の和歌、仏教、吉田兼好(「徒然草」はすごい。よくこの時代にこんなラディカルなことが書けたものだ)、親鸞、井原西鶴、夏目漱石、永井荷風、金子光晴。

しかし、もともと曖昧なものだから仕方がないのかもしれないけど、こうして系譜をたどってみても、結局「世間」はぼんやりとした形のままだ(オカルトと「世間」のつながりの話は新鮮だったので、もっと突っ込んで書いてほしかった)。むしろ、そこから見えてくるのは「隠者文学」の系譜で、世間をのがれて一人で生きようとした人たちがこの国には少なからずいて、そして彼らを描いた書物や彼らが残した書物が多くの読者を集めてきたということだ。

「世間」の中で安穏と疑問を持たず生きる人、「世間」に反抗しないまでも忸怩たる思いをもつ人。当然両方いるはずだが、実は後者の割合はかなり多いのではないかと思う。それが「隠者文学」の流れを作ってきたのだろう。

その証拠に、多様なライフスタイルが少しずつ許容されるようになってきたりして、徐々に「世間」はその一部の力を弱めているように感じる。だが、それに代わって「社会」、「個人」のリアリティが増すことはなく、むしろ分断化が進行しているだけだ。そんな中で公共性に向かおうとすると、「社会」がないため「国家」に向かわざるを得ず、それが一部の排他的なナショナリズムに通じているのかと思った。

読んでて思ったが、「世間」に染まることができないという意味でぼくも「隠者」のはしくれだ。まあ、単なる無力で孤独な変わり者のことなのだが。