フランソワ・ジュリアン(中島隆博、志野好伸訳)『道徳を基礎づける 孟子vs.カント、ルソー、ニーチェ』

道徳を基礎づける 孟子vs.カント、ルソー、ニーチェ (講談社学術文庫)

「道徳」というと国家や共同体からおしつけられる硬直化した規範と思うのはぼくだけではないようで最近は「倫理」という言葉が好まれていてぼくもそっちをよく使う。でも、著者のジュリアンはその「倫理」という言葉を今流行のごまかし方といっている。翻るに、信号無視の常習犯のぼくではあるが、それでも道徳的でありたいとは思っている。個別の道徳の規範の内容ではなくこうした善くあろうとする人間の傾向を道徳の本体と暗黙的に位置づけつつ、その正当性を打ち立てるのが本書のテーマ。

道徳の正当性は古くは宗教により担保されてきたが、近代に入りそうもいかなくなり、18世紀にルソー、カントにより宗教ではなく理性に基づく基礎づけが行われた。それは結局のところ宗教の正当性に依存せざるを得なかった。それを厳しく指摘したのがニーチェだ。それ以来道徳の正当化は見向きもされなくなっていた。本書ではその流れとまったくほかのところ、紀元前4世紀の中国の思想家孟子をもってきて互いに呼応させてこの問題に再度光を当てようとしている。

極東に生まれ育った身からしてみると孟子や彼の属する儒教という考えはまさ「ザ・道徳」でいまさらひっぱりだしても仕方がないという先入観があるが、確かにこうして西と東でぶつけてみるとおもしろい。ままならない現実にくわえて理想の世界を必要とした西と、あくまで現実にとどまろうとする東。ざくっとした印象だけど、もともとの孟子たちの思想はそれなりに融通無碍なものだったようだ。

個人的にはここにニーチェに先駆けて(ルソー、カントにも先駆けてる)道徳の価値を切り下げたスピノザをぶつけてみたくなった。中国の「天」と彼のいう「神」には相通ずるものがある。