第2次大戦で日本、ドイツなどの枢軸国側が勝利した世界を舞台にした歴史改変もの。戦争終結が1947年で、この小説の中ではそれから15年後の1962年のアメリカだ。アメリカは3分割され、東部はドイツの傀儡国家で、西海岸は日本の傀儡、中西部は緩衝地帯になっている。ドイツは戦争に勝利してからもジェノサイドの手をゆるめず、世界各地でユダヤ人以外にもおぞましい虐殺をおこなっていた。対照的に日本はそれなりに人道的に統治を行っており、登場する日本人も高潔で穏健な人ばかりだ。1962年の時点で世界は概ね平和だが、次なる波乱の兆候はすでにその姿をあらわしはじめていた。 ...
「あれは最良の時代であり、最悪の時代だった。叡智の時代にして、大愚の時代だった。新たな信頼の時代であり、不信の時代でもあった。光の季節であり、闇の季節だった。希望の春であり、絶望の冬だった。」という有名な一節で幕をあける物語。舞台はフランス革命の時代の二つの都市ロンドンとパリだ。 ...
読み始めて全然SFじゃないのであれっと思う。第1部はほぼ現代といっていいような数年先の(といっても設定は2012年なのでもう過ぎてしまったが)のイラン市民革命を舞台に、現地で取材するオーストラリア人マーティンと、アメリカに亡命して遠くからそれを見守る若いイラン人女性研究者ナシムが交互に描かれる。ナシムの研究の最終目標は脳の機能をソフトウェアで再現することで、それが第2部で重要な役割を果たす。 ...
数えてないけど300編前後の「断片」から構成された本。それぞれの断片は数行から長くても数ページ、内容は、夢、過去の記憶、思いつき、幻想小説の一部、パロディ、引用など多岐にわたり、一見ランダムに配置されている。あとがきによると、カフカがノートに書き遺した断片がおもしろくて、自分もそういうことをしたくなったそうだ。タイトルもそこからきている。 ...
数十年単位の地層の中から発掘した。今は文庫版は絶版で村上春樹翻訳ライブラリーの中の一冊になっている。 フィッツジェラルドの短編五編と村上春樹によるフィッツジェラルドをめぐるエッセイが収録されている。短編は以下の通り(数字は発表年度)。 ...
借り物。著者は複雑系の研究者だ。読み始める前は、カオス理論や複雑系の一般向けの啓蒙書だと思い込んでいて、貸してくれた人の意図もわからず、長らく放置状態になっていた。読むにしろ読まないにしろ返せる機会にいったん返しておいた方がいいんじゃないかと思いたち、それなら読んだ方がいいだろうという消極的な動機で読み始めたのだった。 ...
英語圏のまったく無名の作家からノーベル賞作家まで幅広く、いわゆる「奇妙な味」の作品ばかり18編を集めたアンソロジー。「奇妙な味」と自称する本は数多く出されてきたが、本書の味付けは格別だ。 ...
モラヴィアというとチェコの地方の名前なので東欧の作家かと思ったがイタリアの作家だった。 ...
ジャンルの垣根を飛び越えた多様な作品を発表し続けるカズオ・イシグロ。今回の作品はトールキンばりのファンタジーだった。騎士や龍、鬼、妖精なんかが出てくる。舞台は中世のイギリスだ。伝説の王アーサー王が亡くなった直後の時代。その頃のイギリスはケルト系のブリトン人とゲルマン系のサクソン人が共存し、貧しいながらも平和な生活を送っていた。だが濃い霧がたれ込めて人々は昔の記憶をなくしている。 ...
従来の訳はソ連時代のロシア語訳からの重訳だったので、検閲や自粛により省略された箇所が多々あったようだが、こちらはオリジナルのポーランド語版からの翻訳で完全版だ。 ...
ソールスターは現代ノルウェイの作家。本邦初訳だ。タイトルは著者の11番目の長編小説にして18番目の本というそのままの意味。 ...
はるか昔ぼくが少年だった時分に読んでいるから再読なのだが、覚えていることといったらある貧しい少年がひょんなことから莫大な遺産の相続人に指名されるんだけど、結局おじゃんになってしまう、という骨格とすらいえないシュールなトレイラー映像の如きものだ。さすがにこれで「読んだ」扱いするのはおこがましすぎるので、再読することにした。最初戯れに英語で読み始めたが、時間がビクトリア朝英語のヴォキャブラリーを増やしても仕方ないので、邦訳に切り替える。せっかくなので、以前読んだ新潮文庫版ではなく岩波から出た新訳で読むことにした。使っている言い回しが時代がかっていて復刻じゃないかと思ったが、確認したら確かに新訳だった。 ...
急激な氷河期の到来で人類をはじめとする生命が滅亡に瀕するというまさにSF的なシチュエーション。とある国の諜報活動に携わっている男が語り手。彼はアルビノで銀色の髪の少女(といっても20歳過ぎで人妻だが)を偏愛している。ひとり旅だった少女を男は追いかけて小さな国にたどり着く。その国は長官という鋭敏で屈強な男によって支配されていた(熊を素手で倒したというエピソードからプーチンを想像する)。どうやら少女は長官によって保護されているらしい。男は少女に会おうとするがなかなか果たせない。やがて他国の侵攻をいち早く察知した長官は少女を連れて逃げ出してしまう。男は長い時間と労苦のはてに彼らの居場所をたずねる。主人公は少女と再会を果たすが、彼女は彼を拒絶し行方をくらましてしまう。そしてさらに追跡は続く……。 ...
古典らしくない古典だった。なんというかふつう古典には普遍的で背筋に響く力強さがあるのだが、この作品はとらえどころがなくて単純な理解をすりぬけてしまうのだ。ストーリーにも描写にも難解なところはどこもない。 ...
芥川賞受賞の表題作と『松の枝の記』の2編が収録されている。 『道化師の蝶』は、奇妙な文様の蝶、それをとらえるための特殊な網、ほとんどの時間を飛行機の中で過ごし乗客の着想をとらえてビジネスの種にしている実業家、友幸友幸という数十もの多言語で作品を書き続ける正体不明の小説家、友幸友幸を追い求めて調査することで稼ぎを得ている男などから編み上げた緻密なタペストリーのような作品。同じシーンが変奏のように微妙に姿を変えて登場し、因果と時間は循環する。 ...
ジャケ買いならぬタイトル買い。「ぼくらは都市を愛していた」と言われれば me too と返すしかない。 2つの世界の2人の人物の視点が交互に語られる。 ...
ある独裁者の長い後半生を描いた作品。彼はこの作品中で名前をもたず「大統領」とのみ呼ばれる。荒れ果てた大統領府で彼の死体をみつける部分からはじまる。その時点で大統領の年齢はまちがいなく100歳は越しており、200歳も越えているかもしれなかった。そこからいったん時代を大きく遡り時代をいったりきたりしつつもおおむね時系列順に物語は語られる。そもそものはじまりからして彼はすでに老人だった。改行なくページにびっしり文字がつめられて、「われわれ」、「わし」などさまざまな人々の視点や語りを絶えず移り変わる。でもその中心には必ず大統領がいる。大統領は側近が彼の意を慮った場合も含めてさまざまな暗殺や虐殺やその他破廉恥な行為に手を染める。子供たちを使って宝くじの不正を企て、発覚をおそれてその子供たちを幽閉し、あげくのはてに殺してしまったりとか、長年の忠実な部下にして友人の反逆の徴をいち早く見極めて、文字通り料理してしまうとか、視察に出かけて人妻を見初めて陵辱しつつその間に夫を部下が殺していたりなど枚挙に暇がない。それでも彼を憎めないのは彼が大胆でユーモラスで臆病で、母を愛し、妻と子供に気を配り、つまりとても人間的に描かれているからだ。彼の周囲の人物も興味深い。彼の母親で国家元首の母になっても小鳥に色を塗る子供だましの手仕事をやめようとしないベンディシオン・アルバラド、彼とうりふたつで影武者の役割をつとめたパトリシオ・アラゴネス、彼が純真な恋情を抱く、美人コンテストの優勝者で日蝕のさなか突然姿を消すマヌエラ・サンチェス、大統領に見初められ修道院から誘拐されて連れてこられ正妻になったレティシア・ナサレノ、大統領の敵をさがす仕事を請け負いながら無実の人間を拷問にかけ殺戮を繰り返すサエンス=デ=ラ=バラ。みんな大統領よりずっと前に死んでしまった。ここには書かないが特にレティシアと大統領唯一の嫡子(といってもそれ以前に大勢の愛妾を囲い5000人の庶子がいるといわれている)の死に方がひどい。そんなことがあっても長い年月の間に彼の記憶はすっかり薄れてしまう。ひとりぼっちになり思い出さえも失って老いの苦しみとともに荒れ果てた大統領府をさまよい歩く晩年の姿が描かれ、ようやく遅きに過ぎた死がやってくる……。ちょっと長くなるが物語の最後の「われわれ」の語りを引用しよう。「結局、喜劇的な専制君主は、どちら側が人生の裏であり、表であるのか、ついに知ることはなかったのだ。われわれが決してみたされることのない情熱で愛していた生を、閣下は想像してみることさえしなかった。われわれは充分に心得ていることだけど、生はつかのまのほろ苦いものだが、しかしほかに生がないということを知るのが恐ろしかったからだ。(中略)彼が死んだというめでたいニュースを伝え聞いて表へ飛び出し、喜びの歌を熱狂的な群衆の声を聞かずにである。解放を祝う音楽や、にぎやかな爆竹の音や、楽しげな鐘の音などが、永遠と呼ばれる無窮の時間がやっと終わったという吉報を世界中に伝えたが、それも聞かずにである。」 ...
バッドエンディングの読んでいやな気持ちになる短編小説ばかりを集めたアンソロジー。最初の『厭な物語』がけっこう人気だったようで、なんと続編の『もっと——』が出ていた。二冊まとめて読んでみた。 ...
序盤は、ホースラヴァー・ファットという小説家が友人女性の自殺をきっかけに精神の平衡を失い奇妙な幻覚や妄想にとらわれ、自殺を試みたり独自の神秘思想を生み出すまでになっていく様を、ファット自らが「必要不可欠な客観性を得るべく三人称で書いている」という体で描かれている。壺から出てきたピンク色の光線の啓示で息子の病気を言い当てたりしたことや、神秘思想の内容を含めて、実際これはほぼディック自身に起きたことであるようだ。時折登場する「ぼく」という一人称の視点からは、こういったことはすべて疑わしいことと扱われていて、その客観性のおかげで実話ベースのセミドキュメンタリーを読んでいるような気持ちになってくる。 ...
簡単に要約するならば、ニッポンの音楽(=Jポップ)を、「内」(すでに日本国内でポピュラリティーを獲得した音楽)と「外」(外国や最先端の未知の音楽)の間の、内が外の影響を受けて変化していく弁証法的な運動としてとらえる史観を提示しつつ、その運動は、内と外の質的な差異が消滅してしまった今停止してしまっている、つまりこの定義のもとでのJポップはもうその役割を終えている、ということが示された本だ。 ...