ディケンズ(石塚裕子訳)『大いなる遺産』

大いなる遺産(上) (岩波文庫)大いなる遺産(下) (岩波文庫)

はるか昔ぼくが少年だった時分に読んでいるから再読なのだが、覚えていることといったらある貧しい少年がひょんなことから莫大な遺産の相続人に指名されるんだけど、結局おじゃんになってしまう、という骨格とすらいえないシュールなトレイラー映像の如きものだ。さすがにこれで「読んだ」扱いするのはおこがましすぎるので、再読することにした。最初戯れに英語で読み始めたが、時間がビクトリア朝英語のヴォキャブラリーを増やしても仕方ないので、邦訳に切り替える。せっかくなので、以前読んだ新潮文庫版ではなく岩波から出た新訳で読むことにした。使っている言い回しが時代がかっていて復刻じゃないかと思ったが、確認したら確かに新訳だった。

いやあ、再読してみたら、緻密に構成されたストーリーラインに舌を巻いた。主人公ピップはみじめな子供時代にふとしたことでエステラという美少女と知り合い彼女とつり合うようなジェントルマンになりたいと願う。18歳になったピップは匿名の人物から莫大な遺産を相続することになり、夢がかなうが、幼い頃からの恩人をないがしろにし、無駄に贅沢な生活をする。ここまではちりばめられたユーモアに抱腹絶倒だ。突然遺産の贈り主が判明し、それをきっかけにピップの人生は暗転する。状況を打開するため、それまでの生活をあらため真心をつくし、精一杯ことにあたるが、努力すればするほど運命は苛酷に振るまい、結局彼はすべてを失う。一転して読んでいて涙を禁じ得ず、一方そのまったく容赦のない展開にかえって爽快感を感じていた。

終章。11年後、ピップは夫と死別したエステラと再開する。このシーンはディケンズ自身によって書き直されたらしい。最初の版では一瞬の邂逅のようなシーンで、勘違いしたまま二人はすぐに別れたらしい。本になっている版では少なくとも物語の終わりまでは二人は一緒だ。「そして、霧が晴れて映し出された、一面に果てしなく広がる静かな月明かりの中に、エステラさんとの別れを暗示する影は何一つ見あたらなかった」という一文が最後の文だ。これを読んで二人が結婚するハッピーエンドととる人もいるみたいだけど、その少し前の部分には、よく知らないがエステラが再婚した、というような記述もあるので、結局結末は変わらないんじゃないかと思う。ただ、別れの瞬間を少し先延ばしにして、あいまいにしただけだ。ただ、そのぼんやりしたあいまいさはきらいじゃない。手に入れ損ねた『大いなる遺産』の最後に残った輝きを楽しむような余韻がある。そうして物語は静かにおわる。

ウェミックなど脇役の登場人物たちも個性的ですばらしかった。さすがディケンズの最高傑作のひとつとされるだけはある。再読して正解だった。