フランス語による上演で日本語字幕付き。 アンドロイド版『三人姉妹』がそうだったように、この舞台も原作を題材としつつもまったく別のテーマの作品に仕上がっている。舞台は2040年の南仏の小都市。社会は長く続く意味のない戦争のため疲弊している。気がかりな夢から覚めたグレゴワール・ザムザ(フランス語名になっている)は巨大な毒虫ではなくアンドロイドになっていたのだ。話すことはできるが、歩いたり食べたりすることはできない。 原作でも一応声を発することはできたものの現実的に家族との意思の疎通は不可能になっていたが、この作品ではふつうに会話をしていてむしろ愛情は深まったように思われる。だから原作とは対極的な4人家族のホームドラマになっていて、その背景にしっかり社会の存在を感じる。家族構成は閉鎖間近の工場で働く労働者階級の父親、難民向けのボランティア活動にいそしむ母親、クレープ屋でバイトする妹。 ...
ヨーロッパ企画初見。ふざけた雑なタイトルだなと思っていたら、隙なくしっかり作りあげられた上質なコメディーで驚いた。タイトルも雑じゃなかった。第一印象は劇団所属の役者の人がそろって役者というより芸人ぽいということだ。 ...
30年前の野田秀樹の名作戯曲をマームとジムシーの藤田貴大が演出。 今回はかなり苦言が多くなってしまう。 まず、ポストパフォーマンストークでゲストの篠山紀信さんもいっていたがマイクを通した役者の声が著しく聞き取りずらかった。これは、この舞台の「難解さ」に一役買っていたと思う。あまりにわからない部分が多かったので、逆に気になってしまって終演後に戯曲を買い求めた。一気に読んでいろいろなことがわかった。確かに元の戯曲も難解なのは間違いない。主役は舞台上の特定の人物ではなく言葉と概念だ。それらが洒落や連想という形で自在に展開して物語を練り上げてゆく。オリジナルの舞台をみたことはないけど、ト書きから想像するに野田秀樹自身の演出ならちゃんとカタルシスが味わえて難解という印象を与えなかったのではないか。 ...
2年ぶりの新作公演。まさにナイロンらしい、シュールでナンセンスでブラックなコメディーだった。 おそらく一昔前の景気がよく携帯電話がなかった時代。ある会社の屋上が舞台。ランチタイムのほのぼのした会話で幕を開けるが、社長が3ヶ月失踪中であること、犯罪すれすれの業務内容、社員ひとりひとりのダークな側面などが徐々に明らかになってゆき、「よい探偵」と名乗るねじがゆるんだ男がもろもろの事件を捜査する。他方、かつてこの会社がまともだった時代のかつての社員たちが本人たちにもわからない理由で屋上に集まる。彼らは実は失踪中の社長の意識がうんだフィクショナルな存在だったのだ……。 ...
遺伝子操作で生まれたきたオレンジという10歳の少年。操作のミスで成長が速くなってしまいもう外見も思考も大人だ。それをいかして臓器細胞を身体に移植して成長させる「ファーム」という役割を引き受けている。彼を中心に、科学者で家庭を放棄した父親、離婚しようとする母親、そのパート先のスーパーの店長、店長がはまっている自己啓発系バーのママ、オレンジに死んだ犬の目をファームしている老女などおかしな人間模様が描かれる。 ...
おお、メロドラマだ。いろいろ演劇をみてきたけど、演劇はメロドラマにはじまり、メロドラマに終わるんじゃないか。最近そんな気がしている。メロドラマというのはコンテンツというよりメディアなのだ。最小限の背景説明でその上にいろいろなものをのせられる。 ...
安部公房という名前をきいて、その作品世界からの引用をちりばめたシュールな作品をちょっと期待していたが、彼の後半生にリアルに焦点を当てた作品だった。おそらくは2013年に出版された俳優山口果林さんの回想記がベースになっているのではないだろうか。彼女をモデルにしたとおぼしきあかねという若手女優と安部公房、そして彼の妻で舞台美術家の真知の間の三角関係がひとつの軸だ。 ...
英語にすると名作『わが星』と同じになってしまうが、その変奏曲だ。使われている音楽と宇宙と人間というテーマは共通で、出演者全員現役高校生(一人をのぞいて女子)、スタッフにも高校生参加というコンセプトで作られた舞台だ。 地球が高温化で住めなくなりつつあり、人類が火星に移住する未来。地球に残った数名の高校生たちが文化祭の出し物の練習をしているというシチュエーション。そこにかぶさる別れと出会い。 ...
いとうせいこう作の『ゴドーは待たれながら』を先にみてしまったこともあり、元ネタである『待ちながら』も見なくてはいけないと常々思っていてようやくその機会がやってきた。柄本兄弟によるウラディミール(ディディ)とエストラゴン(ゴゴ)。 不条理演劇の古典中の古典だ。古典に退屈なものなし、という自作の格言の通り、二人の男がゴドーを待っていて結局ゴドーはやってこない(ネタバレ)というシンプルなストーリーなのにまったく退屈せずスリリングでさえあった。この戯曲が書かれたのは第二次大戦終結後数年後。ゴドーは明らかにゴッド(神)の象徴であることは間違いないとしても、ベケットがそれで何を表現しようとしたのか、こうやって上演をみてみてもよくわからない。 ...
様々な役者グループとともに何度も上演されて、早くも古典といっていいんじゃないかと思える作品だが、ぼくは初見。今年創設60周年を迎える新劇界の老舗青年座とのコラボ上演だ。 ...
仲のいい同い年の男4人のたどる人生の軌跡を青春時代から死まで追いかけてゆく。山田は新卒入社した金融系の会社をドロップアウトしたあとAmazon的な会社に入社し、一生独身のまま過ごす。フリーターの森田は妻がでていったあと職場の後輩とつきあうが、妻が戻ってきて、三角関係に。やがて関係がばれてのっぴきならなくなる。津村はタレントとして活躍するが、酒で失敗が続き、新興宗教に入信する。鈴木は製薬会社の営業としてばりばり働き、一見幸福そうな家庭を築く。そして、それぞれの上に訪れる老いと死の影……。 ...
中上健次の小説をサンプルの松井周が脚色し維新派の松本雄吉が演出するという異色のコラボレーション。 日本人なのになぜかジェイコブという名前の青年がドラッグ、セックスにおぼれ無軌道に毎日を過ごしている。ジャズ喫茶でつるむ友人ユキは財閥の御曹司でありながら共産主義に傾倒し、一族が経営する会社のビルの爆破と家族の皆殺しを企てる。ジェイコブ自身も根源的な殺戮の衝動をその身のうちに抱えていた。故郷の街の元雇い主、ジェイコブの母の異母兄ともその母にジェイコブを生ませたとも噂される高木という男を家族もろとも殺すという思いが脳裏を離れないのだ。その男は今はシャブ中毒になり、家族もろとも妙な新興宗教にはまっていた……。 ...
個人的にローチケはトラブルばかりで鬼門なのだが、今回もあろうことかチケットの引き替えに失敗した(まあ、直前に引き替えようとするほうが悪いのだが)。スタッフの方の厚意でどうにか潜り込ませてもらえた。 ...
観劇ダブルヘッダーによる疲労と、直前にワインを若干多めにのんでしまったため集中力を欠いていたことをまずお詫びしなくてはいけない。 ...
みたことのない野田秀樹の名作戯曲をこれまたみたことのない新進気鋭の演出家の演出でという一石二鳥がまんまとあたった。 ある孤島に外国人の男が流れ着く。島の人間たちは彼を「赤鬼」と呼んで恐れ迫害する。そんな中、母親がよそ者だったため島の人間から「あの女」と呼ばれる女が、「赤鬼」と近づき、言葉が通じるようになっていく。そこにからむ、みんなから「足りない」といわれている女の兄とんび、そして幼い頃から島の外の世界を夢みて嘘つきよばわりされてきた男水銀。 ...
自動車が時速40kmで歩行者と衝突してしまう。ところが歩行者はかすり傷ひとつなし。助手席に乗っていた人が生死に関わる重傷を負う。まるで、透明な壁にぶつかったみたいに……。という奇妙な事故の目撃者が集められた場で、一人が奇妙な仮説をとなえる。世の中には「ドミノ」という自分の欲望や願望を思うがままに実現できる人たちがいて、ケガをしなかった歩行者の兄森魚が無意識的にその能力を発揮したのではないかというのだ。彼は森魚の監視を提案する……。 ...
岸田國士の一幕劇を数編とりまぜて上演する企画の第二弾。(ついこの間のような気がするが、第一弾はもう七年も前だった)。今回も七篇の小品を巧みにシャッフルして構成している。『恋愛恐怖病』の恋愛や結婚をおそれて友情を守ろうとする男女の関係は現代的だし、『麺麭屋文六の思案』でほうき星が地球に衝突すると騒ぐのはSFみたいだった。前作同様カラフルでモダンな和服が美しい。昭和初期の言葉遣いが耳に小気味いい。 役者陣では特に藤田秀世さんがよかった。『恋愛恐怖病』の恋敵の男、『長閑なる反目』の人のいい大家という大局的な役を見事に演じていた。 ...
2回目のシベ少。本編のストーリーは無駄にシリアス風味の学園青春もの。そこに、今回出演者としてクレジットされていない先輩劇団員3人が乱入して舞台上で好き勝手をして、ストーリー進行の邪魔をする。おかしかった。いい感じに笑いをもたらしてくれた。 ...
初3311。かつて学校の教室だった凝縮された空間での観劇。隣の「教室」でパーティみたいなことやっているからどうなることかと思ったが、開演と同時に撤収してくれた。 ...
ぼくが演劇をみはじめたのは世紀末も押し迫ってからからなので、1990年代前半のヒネミシリーズには立ち会えてない。ヒネミシリーズは今はもうないヒネミという田舎町を舞台にしたサーガ的な作品群で、『ヒネミの商人』はそのヒネミシリーズの2作目だ。この作品単独ではヒネミという町が今はもうないことはわからない。ただ、(初演の1993年当時からも)過去の話であることは、人々のお金に対する鷹揚な態度やいちまんえんの肖像が聖徳太子であることからわかる。 ...