新作かと思ったら、2010年に上演した『プランクトンの踊り場』という作品を改題したものらしい。いずれにせよぼくは初見。 アイディアがとにかく秀逸。過去に謎めいた餓死事件が起き、テナントが入ってもすぐに廃業してしまい、よくない噂がたっている場所。そこで今度はドッペルゲンガー騒ぎが起きる……。 ...
なんと6年ぶりの拙者ムニエルの公演。実質解散状態だと思っていたので、まさかこんな日がくるとは思ってもみなかった。嬉しい誤算だ。 ...
ほんとうは先週見るはずだったのだが、仕事のトラブルでチケットをふいにして、再チャレンジした。 岩松了の1989年の戯曲だ。娘の結婚式の日の夜、畳に蒲団が二組敷かれた古い日本家屋の夫婦の部屋。いかにも小津映画的なシチュエーションだが、登場人物やその間の関係性はかなり異形だ。夫は謹厳な高校教師だが性的な欲望が強い。若い後妻である妻はその欲望を受けとめきれず落ち着ける居場所を求めてアパートを借りようとしている。そういう緊張感をはらむ夫婦の寝室にいれかわりたちかわり奇妙な人々が訪れる。体調を崩したバスの運転手、不安定で共依存的な妻の弟夫婦、近くのアパートにひとりで暮らす夫の妹、住み込みの家政婦、近所の飲み友達、そして妻の前夫。 ...
岩松版『家政婦は見た』かと思いきや予想もつかない展開。 弁護士水島慎一郎と経団連会長の娘瞳子はかつて瞳子が容疑者となった殺人事件の弁護で知り合い、無罪を勝ち得、その後愛しあうようになり結婚した。庭付きの古い洋館に居を構え幸福な日々を迎えているかのように見えたある日、昔の事件の真相を知っているという男が現れる……。 ...
チェーホフの戯曲の中でも三人姉妹はとりわけなじみ深い作品だ。とにかく上演機会が多いし、登場人物が魅力的だったり、ストーリーに明暗の陰影がわかりやすくきいてるので、印象に強く残る。ぼくも原作を読んでいることもあって強い既視感があったのだが、実際舞台でみたのは2002年の岩松了演出版と2008年の地点版の2回で、後者はかなりデフォルメされている演出だった。今回観てみて細部をほとんど忘れていることに驚かされた。忘却万歳! ...
はじめての岡崎藝術座。 日系移民の子孫としてペルーで生まれ日本で育った作・演出の神里雄大さんの私小説的な作品だ。沖縄の親戚と祖先の墓からほとんど記憶にないが生まれ故郷であるペルーに祖母を訪ねた自分のルーツをたどる旅を題材に、日本出身で左翼弾圧から逃れて世界中を転々とした末メキシコ演劇の父と呼ばれるようになった佐野磧をイマジナリーフレンド的に登場させる。 ...
過疎が進んだ地域の海に面した神社が舞台。氏子の減少で、最近では捨てるに捨てられない不要になった宗教的な遺物をひきとるサービスをして糊口をしのいでいた。そんなある日海岸に一番近い鳥居が倒壊し、それから徐々に境内が崩落していき、白鳥たちが血を吐いて死ぬなどということが起きる。まるでこの神社の終わりを告げるかのように……。 ...
新年初観劇。 真実が婚約者であるあつしの実家に招かれていってみるとそこには七小福という奇妙な七人の人たちがいた。彼らはみな孤児で、イェン先生という奇妙な指導者の下孤立して自分たちの能力を磨いてきたという。あつしは彼らの中の二人からうまれた子供だったのだ。彼らからふるまわれたお茶をのむと、真実は悶絶し、自分の意識の奥底へとおりてゆく。そこに待っていたのは幼少時代のトラウマだった。そのおそろしさに七小福の面々も怖気を震う……。 ...
コンビニを舞台にしたコンビニがテーマの作品。登場人物は7人。中間管理職の悲哀をにじませる雇われ店長。店を担当する本社社員まみやSV。店長に対して終始居丈高だが彼もまたノルマに縛られている。バイトのいがらしとうさみ。うさみはコンビニを愛しているがいがらしはビジネスライクであり他の従業員にも過剰なサービスを提供しないように言う。そこに新人バイトみずたにが加わる。そしていつもコンビニをディスるだけディスって何も買わずに買わずに帰る客と、特定の銘柄のアイスクリームを毎日買うほど大好きな客。そのアイスクリームはある日を境に販売中止になってしまう。その進化形のバージョンと思われる新商品スーパープレミアムソフトWバニラリッチが発売されることを聞きつけたみずたには、そのことを客に伝える……。 ...
タイトルはあまり内容に関係ない。スーツ姿の男がオフィスでひとりで残業をしている。タバコを吸おうとしてライターがつかず、ふと訪れる空白の時間。突然デスクの間から道化服の男が這い出してくる。彼はオフィスの中のデスクも椅子もダンボールであることを指摘し、放り投げてみせ、ここがヴァーチャルな世界に過ぎないことを示唆する。そして自分は彼の友達だと自己紹介し、彼の赤ん坊時代、少年時代を追体験させる。 ...
近所や取引先の人を招待してのホームパーティーが舞台。夜がふけてほとんどの客が帰り、残ったのは、ホストの添島夫妻のほかは、デザイナーの斉藤夫妻、たまたま同姓で病み上がりの斉藤雅人、トヨタの社員で遅れてやって来た田ノ浦のみ。あとから添島家のひとり息子が帰宅する。 ...
もともと別役さんの新作を上演することになっていたが、病気のため執筆できずということで、急遽旧作の上演ということになった。なんかそそらないタイトルだけど、中身は大変おもしろおかしく、しかも今この時代の状況が射程に入った深い作品だった。 ...
16年前の初演は高熱をだしながらみた。芝居の内容はたいていしばらくたつと忘れてしまうのだが、この作品はまだ鮮明に覚えている。 ...
大学のサークルの仲間のひとりが卒業とともに故郷に帰るので、その送別会として温泉旅行にきた男女5人。そこはサークルのリーダー格の男加藤の実家の温泉旅館だ。加藤の姉がきりもりするスナックには加藤の同級生たちが働いている。同時多発的に盛り上がる何組かの恋模様……。 ...
同性カップル主軸の群像劇だ。人間関係を整理すると、まずメインの同性カップルのさち子と祥子。さち子は元ヘテロで別れた夫との間に娘灯がいる。過食症になった灯をさち子がひきとることになり、ふたりの間に波風が生じる。彼らの下の世代の同性カップル夏来と珠美はさらりと描かれるだけ。珠美が勤める会社のデリカシーがない先輩社員玉田は人間関係のハブの役割を果たしている。やはり同量の芽依子を友人の原口に紹介するが、原口は実はゲイで片思いの男性ぽんちゃんがいる。本多はヘテロで自分の家を避難所として利用している永未に好意をもっているがそれを言い出せない。永未はライターで祥子たちを取材する。ほかに、芽依子の妹七菜とバーのマスター風太。 ...
まず構成に度肝をぬかれる。前半と後半にわかれていて、前半は屋外3箇所で上演されるパフォーマンスのうち好きなものを選んで観ろといわれる。会場は元学校で、屋外というのは校庭のことなのだが、倉庫の上、体育館のバルコニー、中央のモニュメント的なものの前の3箇所に役者たちがいる。この三角形の中で観客は自由にポジションを決めて立ったままきくというスタイルだ。距離的にはほかのグループの声も一応届くことは届くくらいの感じだ。けっこう繰り返しが多いパフォーマンスなので、今この瞬間にほかのグループではもっと面白いことをやっているんじゃないかという疑念がかざして、途中何度か移動してしまった。どれをみたからといって、その先のストーリーがわからなくなるとかまったくないので、安心して好きなものをみればいいと思う。 ...
独立した作品としての初演だった前回公演からキャストや映像を一新してのほぼ2年ぶりの再演。まだ記憶がそれほど風化してないはずなのに見にいったのは、前回冒頭10分を見逃してしまったからだ。実際はけっこう記憶の風化も甚だしかった。 ヒドミの部屋には悲惨な最期を遂げて成仏できずゾンビみたいになっている霊、三郎と虹郎が住みついている。三郎はヒドミのことが好きで、ゾンビは人間から愛されると人間になることができるときいてなお一層熱意をもやす。あこがれの男性ヨシヒロを部屋に連れてきたヒドミは、彼ら2人に隠れているよう言う。ところがヒドミの部屋で下着を盗んだり傍若無人に振る舞うヨシヒロをみた三郎は……。 ...
再演はスキップしたのでなんと2年半ぶりのペンギン観劇。 左右の足のサイズが3cm違って、それぞれ大きい方の足が右と左で逆なため靴を買いにいくときだけ一緒に行動する女の子真知と理々子が主軸の物語。高校生の二人が真知の父親と三人で遠くの靴屋を探すプチ冒険譚と、40年前の凄惨な殺人事件、その事件を追いかけている学生、その学生がよくみる巨人の夢、その夢の登場人物の男性が真知の婚約者として家に訪ねてくるちょっと未来、真知と理々子が迷い込む冥界の入口、理々子の小学生時代に言えなかったホントウのこと、など時空をまたにかけてシュールにポップに舞台は展開してゆく。まさにペンギンらしい真骨頂の舞台。ただ欲を言うなら、もっとシュールにポップにはじけてもいい。最後小さくまとめすぎた感はある。 ...
ハプニング的にみにいくことにした舞台。その分情報が足りてなくて(いつものことだが)、昨年みた『光のない。(プロローグ?)』と混同して、その別バージョンだと思っていた。テーマとスタイルは共通しているが別のテキストだった。 ...
フランス語による上演で日本語字幕付き。 アンドロイド版『三人姉妹』がそうだったように、この舞台も原作を題材としつつもまったく別のテーマの作品に仕上がっている。舞台は2040年の南仏の小都市。社会は長く続く意味のない戦争のため疲弊している。気がかりな夢から覚めたグレゴワール・ザムザ(フランス語名になっている)は巨大な毒虫ではなくアンドロイドになっていたのだ。話すことはできるが、歩いたり食べたりすることはできない。 原作でも一応声を発することはできたものの現実的に家族との意思の疎通は不可能になっていたが、この作品ではふつうに会話をしていてむしろ愛情は深まったように思われる。だから原作とは対極的な4人家族のホームドラマになっていて、その背景にしっかり社会の存在を感じる。家族構成は閉鎖間近の工場で働く労働者階級の父親、難民向けのボランティア活動にいそしむ母親、クレープ屋でバイトする妹。 ...