史実に基づいた物語。 19世紀初頭江戸幕府の封建鎖国体制が続く日本に対してロシアは開国を求めて度々南下してきていた。そこで幕府は弘前藩に命じて藩士、領民を動員して蝦夷地の警護に当たらせる。ロシアからの攻撃はまったくなかったが、寒さと栄養失調により彼らは次々と病に斃れてゆき、7割以上が死ぬ大惨事になった。 ...
11年前の初演を見ているし、キャストはその時とまるっきり同じだし、3年前に戯曲を読んだばかりだし、新鮮味を感じないんじゃないかと危惧していたが、ぼくの忘却力は思っていたより偉大だった。初演同様いやそれ以上に鮮烈な観劇体験だった。というのには、11年前より現在のほうが戦争やテロ、またそれによる文明崩壊への恐れがリアルになっていることもあるかもしれない。 ラスト。6人の登場人物のうちの亡くなった3人の人物が舞台に一瞬だけ現れて、去った後影だけが残る演出に背筋がぞわぞわした。 兄のチャズ役の大倉孝二は実年齢が役の年齢に近づいた分、初演より役にはまって熱のこもった演技だった。 ...
カントールって集合論の人かと思ったら違った。タデウシュ・カントール。ポーランド出身の前衛的な演出家、美術家で今年が生誕100周年だったらしい。日本では主に寺山修司によって紹介されたそうだ。今回は彼へのオマージュということで庭劇団ペニノのタニノクロウに委託して新たに作り出された(というかワーク・イン・プログレスなので正しくは作り出されつつある)舞台だ。 ...
城山羊が三鷹でやるときにはつい期待してしまうが、今回も劇場の名物担当者森元さんが出てきて拳銃で撃たれてくれた。 城山羊の会はどの作品にも多かれ少なかれ暴力の香りを感じる。前作はリミッターを外しきった感じだったが、今回は血のにおいを花のにおいの裏に隠して、スタイリッシュになっていた。 ...
日韓合同作品。舞台上では日本語、韓国語、そして英語が飛び交い、それぞれの翻訳が表示される。 岡田利規は日韓関係は扱わないと決めていたそうだ。 野球のルールがわからないという若い女性二人に男性がルールを教えようとするがどうもうまく伝わらない。そういう彼も少年時代のトラウマで今は野球が嫌いになっている。そこへイチロー(のニセモノ)があらわれる。韓国語を話す男性が実は日本人の役で、日本語を話す女性が実は韓国人の役でというギミックもあって、前半ひたすら楽しい。 ...
どんな材料を使ってもみじん切りにして餃子になってしまうのが地点の芝居だ。今回はその餃子に生演奏がついている。 もともと地点の芝居は観念性はほとんどなくて、ほぼ身体性で構成されているのだけど、音楽が加わったことで、さらに際立った。途中、音楽的な興奮がとても高まる箇所があり、ちょっと感動した。そこをクライマックスにしてもう少し短く切り詰めてもよかったもしれない。 ...
パリのテロ直後のタイミングでパリ市立劇場の公演を見ることになるとは。突進してくる犀から逃げ惑う人々にテロの恐怖を感じずにはいられなかった。演出家はテロの影響で来日できなかったそうだ。 ...
兄が弟に、妻と一緒に一晩過ごしてその夜起きたことを逐一漏らさず報告してほしいと依頼する。夏目漱石の『行人』から借りてきたシチュエーションだが、舞台は現代だし登場人物ひとりひとりの個性が際立っている。兄はもともとパフォーミングアーティストで今は大学で教えている。とても繊細で傷つきやすい人間だ。妻は元彼の教え子だった。奔放だが自分を空っぽだと思っていて外から来るものを拒まない。弟はフリーターで現在無職。小説家志望で一つの職を長く続けることができない。倒れた母の介護のために三人は一緒に暮らすことになる。夫婦の間には通常の性的関係はない(代わりに二人で奇妙なパフォーマンスを行う)。兄は女性に性的興味を持てないのだ。兄と弟の間にはホモセクシャルな愛情がある。 ...
イキウメ別館ということだが、ほぼほぼイキウメそのままの舞台だった。もちろんそれが悪いということは全くなくすごくよかったのだが、だったらイキウメでいいじゃないかと思ったのも事実だ。 ...
SFっぽいタイトルでテーマは文房具というから筒井康隆の虚構船団的なものを想像していたら全然違った。 近くの遊星から地球に観光客にきている体長数センチの宇宙人ツアー客の一行。彼らが立ち寄ったのは平凡なOLが住む一室。テーブルの裏には彼らの身体くらいの大きさの文房具が置かれている。彼らの星では電子化が進んでいるため文房具は珍しいのだ。彼らが部屋を探検していると、予想外なことにその部屋の住人であるOLが帰宅する。あわてて隠れようとする彼らだったが……。 ...
太宰最後の未完の小説をベースにウェルメイドなコメディーに仕上げた作品。戦後数年後の東京。編集である田島は、田舎に妻子をおいたままで、闇商売に関わって巨額の財をなし、十人近くの愛人と付き合っていた。そんな彼が、愛人と手を切り、妻子を田舎から呼び寄せようとする。そのための策略としてどこからか見つけてきた超美人の女性に妻の役を演じてもらって愛人たちの元を訪ねることにする。その白羽の矢がたったのがキヌ子という闇屋で働くだみ声の女性だ(小池栄子がいい声を出していた)。そのたくらみがあたったのかどうか、彼は愛人たちに次々に別れの言葉「グッド・バイ」を告げられていく。そして思ってもみなかった相手からも……。 ...
このテキストは小説として書かれたもので、それをそのまま上演しようと主演の佐々木幸子さんが言い出したことからこの企画がはじまったらしい。 長さ40分のひとり芝居。終始ある女優(といってもすぐ元女優だとわかるのだが)の独白という形で進行する。なぜ今は女優でなくなってしまったのかという理由は少しずつ明らかになるが、それが意外性に満ちていて、あっという間に引き込まれる。その物語を通して浮かび上がってくるのは作者の岡田利規の演劇観、芸術観だ。 ...
人里離れた辺境の湯治場に人形芝居をやる父と息子二人がやってくる。手紙で余興を依頼されたのだ。しかしそこは管理者のいない宿で、手紙を出した人も見あたらないのだった。帰りのバスもなくなり二人は仕方なく宿に一泊することにする。その宿にいるのは近所の村からきた湯治客のおたきさんという老女、盲目の青年松尾、近くの温泉街の芸者二人、屈強だが唖で文盲の三助だ。 ...
野の上ははじめてで、「の」の上だから「ね」かなとわけのわからないことを思っていたが、実はこの間みたホエイ『雲の脂』と作・演出の人が同じだった。野の上は津軽に本拠を置く劇団で俳優陣も津軽在住の人が多いそうだが、今回はオール東京キャストで限りなくホエイに近い気がする。ただ、舞台で話される言葉の8割以上が津軽弁であることが違いといえば違いなのかもしれない。 ...
こどももおとなも楽しめる芝居という触れ込み。舞台の手前と奥に境界があって、向こう側が鏡の中という設定。手前の世界の海軍士官タナカと向こう側のカナタ。二人は互いの存在に気がつき、友人になる。毎日ピザの配達にやってくる配達員は実は女性でコイケと名乗った(長塚圭史の女装)。彼女にも鏡の中の分身がいて名前はケイコ、松たか子が演じている。自信家で積極的なコイケと引っ込み思案で自己評価の低いケイコなにかと対照的な二人だが、男たちはどちらもケイコに恋をし、コイケの存在を邪魔に感じ始める。彼らはコイケを亡き者にし、そのあとでどちらがケイコと恋人になるか決めることにする……。 ...
何公演かスキップして久々の水素74%。変わってなさに驚く。登場人物たちは誰もが他者からの全面的な無条件の承認を求めている。太宰治作品をモチーフにした演劇公演ということだが、ぼくが太宰をほとんど読んでないこともあってどこがそうだかよくわからなかった。 ...
「ファイナル」と銘打ったシティボーイズ3人だけの公演。作・演出に五反田団の前田司郎を迎えて、五反田団的な日常感覚と宇宙的シュールさが直結する笑いと、老境ど真ん中のシティボーイズ3人のゆるさが共鳴していたのではないだろうか。団地のゴミ捨て場でゴミの番をする初老男性3人の物語。 ...
少年時代の平田オリザ自身の体験をベースにイスタンブールの安宿に集う日本人を描いた『冒険王』の続編。前作は1980年の設定だったが、今回は2002年の同じ宿を舞台にしている。正確には2002年6月18日、日韓共催だったワールドカップ日本が敗退し韓国が準々決勝進出を決めた日だ。ちょうど韓国-イタリア戦の試合時間が舞台の時間に重なっている。 前作では東アジア系は日本人ばかりだった宿の客も韓国の経済発展、自由化に伴い韓国人が増えている。登場人物も半数は韓国人で、共同脚本、共同演出としてソン・ギウンという韓国の演劇人が入っている。 ...
実質的には大谷能生さんのひとり芝居。大きな枠でいうとチェルフィッチュ系で(それも当然で作・演出・振付の山縣太一さんはチェルフィッチュの主要なプレイヤーのひとりでまさにその世界観を作りあげてきた人だ)、つまり俳優が奇妙な痙攣的な動きとともに日常的な出来事をモノローグ的に語るというダンスと演劇の融合的なスタイルだ。今回の作品はそれをかなりダンスよりに動かしている。つまり、動きはとてもハードになり(終演後の大谷さんの疲労困憊ぶりがとても微笑ましかった)、物語はほぼ静止したまま動かない。 ...
前作『トロワグロ』で岸田戯曲賞を受賞して満を持しての新作。 河原のオンボロ借家に住む貧しい兄妹のもとに大家がたまった家賃のとりたてにやってくる。その大家もこわもての不動産屋に金を借りていて切羽詰まっている。借家に大家、不動産屋、その水商売の彼女が集まって一悶着起こる中、近所に住む一見無関係な大学教師夫婦が散歩にやってくる……。 ...