富田靖子主演、作の長塚圭史本人による演出による初演の舞台を2006年にみているが。すっかり内容を忘れていた。 地震で壊滅状態の東京が舞台。余震におびえながら復興は遅々として進まない。食糧や生活必需品は配給になり不足状態が続き。自警団と称する団体による外国人に対するヘイトや暴力が横行する。今思うと、あの頃は絵空事だったが、東日本大震災を経験し台風16号通過後の千葉の惨状みた今、とてもリアルに感じた。予言的な作品といっていいかもしれない。 ...
おそらくは兵庫県あたりの海沿い、薄い壁を隔てて鏡像のように並ぶ安アパートの2室。 左側にすむのは今年53歳の漁師蘆田剛史だ。彼は天涯孤独だが小さな漁船の船長であり、毎日若い仲間たちとと飲み食いしながら楽しくやっている。 ...
四代目鶴屋南北の歌舞伎『桜姫東文章』が原作であることはそのストーリーも含めて見終わった後知った。 そうしてみると舞台をみてあっけにとられた物語展開のうちそれなりの部分が原作のお手柄だということがわかった。しかし、舞台と原作はまったく別物だ。年代が江戸から昭和の戦争前後に移しかえられていて(開演前や幕間に流れる昭和歌謡がいい)、清玄は貧しい孤児を助ける篤志家、桜姫は金持ちに見初められた元孤児という設定だ。おまけに桜姫は吉田という名でこの物語の因縁の外にいて、ギリシャ悲劇のコロス的なバンドの導きによって、自らの意志で桜姫になるのだ。 ...
全編アルゼンチン出身(1人はブラジル。セリフが少なかったのはスペイン語が母語ではないせいかもしれない)の俳優たちのスペイン語による公演で英語と日本語の字幕がついた。 ...
2008年の再演らしいけど、みた記憶も記録もないので、たまたま見逃してしまったのだろう。 仕事もお金もなく元カノの家に居候し続けている男が主人公。やることといえば、拾ったファミコンで古いRPGをプレイすることだけだ。過去と現在の交錯、無為に流れてゆく時間。五反田団の特徴的な要素が詰め込まれている作品だ。 ...
これまでベテラン俳優を使って数々のメロドラマを作りあげてきた岩松了が今回は20代主体の若手キャストで挑む。 染色会社の二代目社長の田宮慎一郎は結婚して一年の妻いずみや従業員たちと別荘に避暑に来ていたが、急な仕事が入り、いずみの相手をさせるため後輩の北島を呼ぶ。周囲の噂になる二人に対し、慎一郎はむしろ噂や忠告をする者たちを責める。 ...
あれ、主人公はビビという名前じゃないんだというのが第一印象。それもそのはず。タイトルは『ビビは見た!』ではなく『ビビを見た!』だった。誰が見たかというと、ホタルという生まれつき盲目の少年。彼は謎の声により7時間だけ視力を与えられる。その代わりそれ以外の人々から視覚が失われ、折しも「敵」という謎の存在が街に近づいて大パニックが発生する。 ...
ウディ・アレン『カイロの紫のバラ』の飜案。舞台は1930年代の日本の梟島という架空の離島に移しかえられているが、基本的なストーリー展開は同じ。恵まれない人妻が毎日のように映画館で買い詰めるうち、贔屓の俳優が演じるキャラクターがスクリーンの向こうからこちらに声をかけてくるというファンタジー。 ...
12月に見た公演(以下基本版と書く)の拡張版。役者の数が4人から7人に増えていた。時系列的には基本版の後日談で、3人の登場人物がそのままの役柄で登場している。とはいえ、元は妖精の森出身のはずのチロルは前作でもかなり人間化していたが今作ではほぼふつうの人間の女性と変わらないメンタリティと所作を身につけ、前作の主人公だった中大兄妹の兄と同居して恋人関係になっている。そこに加わるのはおなじくボードゲーム愛好家で、東京から中大阿知賀たちが住む街に引っ越してきたエレとその恋人奈良さん。そして近隣のボドゲ仲間根利と自称コミ障の女そつある。 ...
まったく予備知識なしに見たので地方の、時代から取り残された喫茶店の話かと思ったら、舞台はどうやら川崎。マルチの勧誘シーンがでてきて一瞬今回はそっちの話かと思わせるが、実は日本に昔からはびこってかえって最近また復活してさえいる民族差別がテーマなのだった。川崎臨海部あたりの在日の人たちが多い地区の街並が浮かんできた。 ...
なんと2ヶ月ぶりの観劇。コクーンの舞台と座席の配置が大幅に変えられて、舞台が真ん中でその周囲に座席がとりまくように配置される、今はなき青山円形劇場のようになっていた。 ...
古典劇がベースの作品が主体のお布団初のオリジナル作品。とはいえ、古典劇のエッセンスが感じられる作品だ。 古典劇では複数の美徳や義務の間の葛藤がテーマとなるが、本作でも、(あたかも神と人の関係のように)クリエーターは自らが生み出したキャラクターをどのように操作してもよいという権利と、そのキャラクターが「壊された」ことで「彼女」を崇拝する「女」もまた「壊され」てしまうという葛藤的な構造が描かれている。古典劇では、葛藤はひとりの人格の上に起こるので、悲劇となって工事の解決を促すが、本作では、実は葛藤の場となる主体は存在せず、キャラクターである「彼女」も「女」も一方的に「壊されて」いくだけなのが、古典劇との違いだ。 ...
初の範宙遊泳。代表作の再演ということで満を持して観にいった。 ダイアローグの途中で内心を表出するモノローグが入るのはどうも苦手なのと、テーマが人類の大量死なのは、前田司郎『生きてるものはいないのか』でやりつくした気もしていて、途中まで冷めた感じでみていた。 ...
4年前にみた『スーパープレミアムソフトWバニラリッチ』は割とまだ記憶に新しいが、「ソリッド」に賭けてみにいった。 ストーリーやセリフはほぼ同じ。役者は7人中5人が残留。使われている音楽もバッハの平均律クラヴィーア第1番で同じだ。ただし演奏が前回電子音だったのがピアノになっている(演奏:キース・ジャレットとのこと)。そして役者は音楽と同期してセリフを発したり身体をうごかしたりするようになった。それによって、心なしか、身体の動きがダンスとしてより前面にでてきているように感じた。セリフ以上に身体がものを言うようになっている。 ...
『これは演劇ではない』というフェスティバル参加作品。『28時01分』というタイトルだし、ちょっとはじまる前に間があったので、『4分53秒』的な作品かと身構えたが、むしろどこが演劇ではないのかわからないような完璧に演劇らしい演劇沙品だった。 ...
『これは演劇ではない』というフェスティバルの参加作だが、今年最初に見た演劇と言っていいのだろうか。 あたかもドキュメンタリー的に、舞台で稽古の日の様子を断片的に再現する。奇妙に自己言及的だが、これが不思議におもしろいのだ。過去の記憶を想起する行為の中にすでに詩情が含まれているのかもしれない。稽古場の数だけいくらでも再生産できる手法ではあるが、反面差別化が難しい。そこにある特徴的なコンテンツが何かということを逆に問われてしまう。 ...
タイトル通りテーマはボードゲーム。この作品のために作ったオリジナルのボードゲームを登場人物4人がテストプレイしているシーンから始まる。ボドゲ作家中大、長らくひきこもりだったその妹個子、中大の恋人というわけじゃないのに彼らと同居している謎の同居人ニホエヨ、そして中大がボドゲ会でひろってきた自称ボドゲ妖精チロル(前作『物の所有を学ぶ庭』にでてきた妖精さんと同名)。彼らのキャラ立ちがすばらしい。 ...
ぼくがよい観客になれないことは観る前からわかっていたのだが、スパイスのインタビューに啓発されて、自分の目で確かめようと思った。結果として、中に入り込めない完全な傍観者として60分間、ここにいていいのかという居心地の悪さを感じ続けたのだけど、それでも一部始終見届けたつもりではある。 「能」というのは実質「脳」のことで、この作品を貫いているものがあるとしたら、脳の言うことをきかない体だ。インタビューで語られた内容や一箇所でているセリフからすると、演出家のいうことをきかない俳優を指しているのだろう。実際、俳優たちの体の動きは予測不能で、タコやイカなどの頭足類の脚がてんでんばらばらに動いている様を思わせる。演出家が脳として圧倒的な権力をふるう脊椎動物的演劇から各脚がそれぞれ自律的に動く頭足類的演劇へいうとわかりやすい気がする。 ...
俳優が観客に語りかけるシーンからはじまる。演劇ではふつうのことだけど考えてみると不思議だ。それはこの舞台の上の空間でも不思議なこととみなされて、トラックの運転手ゆたかがする話——真夜中にヒッチハイクの少女をひろって……——は往来の通行人に向けて話しているということになり、ごく自然な流れとしてYouTubeに投稿され周知になる。そこに少女自身や、立ち聞きしていた近所のタバコ屋の主人、さらにその内縁の妻でゆたかの前妻が次々とあらわれ、混乱がひろがってゆく。 ...
プラトン『対話篇』の中の一篇『クリトン』が原作。誹謗中傷で死刑に処されようとしているソクラテスを脱走させるために友人のクリトンがやってくるが、ソクラテスは悪法ともいえども法という論理を振りかざして、それを拒絶するという有名な話だ。この舞台では、それが漫才の話に移しかえられている。 ...