なんと2ヶ月ぶりの観劇。コクーンの舞台と座席の配置が大幅に変えられて、舞台が真ん中でその周囲に座席がとりまくように配置される、今はなき青山円形劇場のようになっていた。 ...
古典劇がベースの作品が主体のお布団初のオリジナル作品。とはいえ、古典劇のエッセンスが感じられる作品だ。 古典劇では複数の美徳や義務の間の葛藤がテーマとなるが、本作でも、(あたかも神と人の関係のように)クリエーターは自らが生み出したキャラクターをどのように操作してもよいという権利と、そのキャラクターが「壊された」ことで「彼女」を崇拝する「女」もまた「壊され」てしまうという葛藤的な構造が描かれている。古典劇では、葛藤はひとりの人格の上に起こるので、悲劇となって工事の解決を促すが、本作では、実は葛藤の場となる主体は存在せず、キャラクターである「彼女」も「女」も一方的に「壊されて」いくだけなのが、古典劇との違いだ。 ...
初の範宙遊泳。代表作の再演ということで満を持して観にいった。 ダイアローグの途中で内心を表出するモノローグが入るのはどうも苦手なのと、テーマが人類の大量死なのは、前田司郎『生きてるものはいないのか』でやりつくした気もしていて、途中まで冷めた感じでみていた。 ...
4年前にみた『スーパープレミアムソフトWバニラリッチ』は割とまだ記憶に新しいが、「ソリッド」に賭けてみにいった。 ストーリーやセリフはほぼ同じ。役者は7人中5人が残留。使われている音楽もバッハの平均律クラヴィーア第1番で同じだ。ただし演奏が前回電子音だったのがピアノになっている(演奏:キース・ジャレットとのこと)。そして役者は音楽と同期してセリフを発したり身体をうごかしたりするようになった。それによって、心なしか、身体の動きがダンスとしてより前面にでてきているように感じた。セリフ以上に身体がものを言うようになっている。 ...
『これは演劇ではない』というフェスティバル参加作品。『28時01分』というタイトルだし、ちょっとはじまる前に間があったので、『4分53秒』的な作品かと身構えたが、むしろどこが演劇ではないのかわからないような完璧に演劇らしい演劇沙品だった。 ...
『これは演劇ではない』というフェスティバルの参加作だが、今年最初に見た演劇と言っていいのだろうか。 あたかもドキュメンタリー的に、舞台で稽古の日の様子を断片的に再現する。奇妙に自己言及的だが、これが不思議におもしろいのだ。過去の記憶を想起する行為の中にすでに詩情が含まれているのかもしれない。稽古場の数だけいくらでも再生産できる手法ではあるが、反面差別化が難しい。そこにある特徴的なコンテンツが何かということを逆に問われてしまう。 ...
タイトル通りテーマはボードゲーム。この作品のために作ったオリジナルのボードゲームを登場人物4人がテストプレイしているシーンから始まる。ボドゲ作家中大、長らくひきこもりだったその妹個子、中大の恋人というわけじゃないのに彼らと同居している謎の同居人ニホエヨ、そして中大がボドゲ会でひろってきた自称ボドゲ妖精チロル(前作『物の所有を学ぶ庭』にでてきた妖精さんと同名)。彼らのキャラ立ちがすばらしい。 ...
ぼくがよい観客になれないことは観る前からわかっていたのだが、スパイスのインタビューに啓発されて、自分の目で確かめようと思った。結果として、中に入り込めない完全な傍観者として60分間、ここにいていいのかという居心地の悪さを感じ続けたのだけど、それでも一部始終見届けたつもりではある。 「能」というのは実質「脳」のことで、この作品を貫いているものがあるとしたら、脳の言うことをきかない体だ。インタビューで語られた内容や一箇所でているセリフからすると、演出家のいうことをきかない俳優を指しているのだろう。実際、俳優たちの体の動きは予測不能で、タコやイカなどの頭足類の脚がてんでんばらばらに動いている様を思わせる。演出家が脳として圧倒的な権力をふるう脊椎動物的演劇から各脚がそれぞれ自律的に動く頭足類的演劇へいうとわかりやすい気がする。 ...
俳優が観客に語りかけるシーンからはじまる。演劇ではふつうのことだけど考えてみると不思議だ。それはこの舞台の上の空間でも不思議なこととみなされて、トラックの運転手ゆたかがする話——真夜中にヒッチハイクの少女をひろって……——は往来の通行人に向けて話しているということになり、ごく自然な流れとしてYouTubeに投稿され周知になる。そこに少女自身や、立ち聞きしていた近所のタバコ屋の主人、さらにその内縁の妻でゆたかの前妻が次々とあらわれ、混乱がひろがってゆく。 ...
プラトン『対話篇』の中の一篇『クリトン』が原作。誹謗中傷で死刑に処されようとしているソクラテスを脱走させるために友人のクリトンがやってくるが、ソクラテスは悪法ともいえども法という論理を振りかざして、それを拒絶するという有名な話だ。この舞台では、それが漫才の話に移しかえられている。 ...
二演目のダブルヘッダーの一本目。ひとり芝居だ。 二部構成。第一部では男性、第二部では女性が語り手で、本来二人の役者で上縁するところをあえて女性ひとりでやっている。しかも戯曲の言葉を細かく区切って暫定的な意味を浮上させつつ、次の言葉をつなげることによりそれを裏切っていくという興味深い演出。この演出自体が独立したエンターテインメントになっていた。 ...
戯曲は読んでいたがようやく舞台をみることができた。演出の長塚圭史さんがCINRA.NETのインタビューで「ほとんど演出の余地がないんです。ト書きまで細かく書き込まれているから、演出家が自分の色を出しにくい」と言っていた通りではあるが、だからこそ、戯曲をそのまま舞台に現出させるという地道な演出の力が求められているともいえる。 その演出のおかげで気づくことがいろいろあった。まず主人公ウィリー・ローマンの妻リンダはそれぞれの家族を一番愛情深く理解している一方で、実は彼の幻想の共犯者だったということ。そして、そういう幻想から自由ですべてが見えているのは仕事が続かず情けない長男ビフなのだ。ただ彼が何を言っても誰も真面目に聞こうとはしない。苦い真実をあえて知ろうとする者はいないのだ。 ...
前回のナイロン本公演はいつもの本多劇場ではなく芸劇だったが、今回のKERA・MAPが本多。劇団員が3人でているし、むしろこっちが本公演のような気がしてくる。 ...
お金がテーマということで、路上で1000人の人に「あなたにとって、お金とはなんですか?」とインタビューしたそうだ。そのときの映像が舞台にも投影されて使われていた。 ...
20年前の初演もみていた。うまく消化できなくて、そのときまだ芝居を見始めたばかりだったので、はじめてのうまく消化できなかった芝居だったかもしれない。それだからこそいまだに印象に残っている。 今回あらためてみて、かなりそのときのもやもやが晴れた気がする。消化できたというのではなく消化する必要がないものを消化しようとしていたのだ。 ...
メンバーが大量に増えた新しい阿佐ヶ谷スパイダースの第一作。 妻を医療事故でなくした水谷は、それが担当医師の個人的事情による過失だったということを知り精神の平衡を失う。水谷は、医師に会うため、オオカミタクシーに乗り込み、大久保に向かい、さらに渋谷を経由して代官山と、夜の東京を疾走する。このくだりが祝祭的でほんとうにすばらしい。町が目の前に浮かび上がってきた。水谷を気遣う入口、栗田など登場人物も愛すべき人たちだ。 ...
坂口安吾の作品をベースにした、夢の遊民社時代から上演している野田秀樹の代表作だが、初見。予備知識なしでみた。 みたあとにいろいろ知識を仕入れたのだが、「贋作」とはいうものの、坂口安吾の作品『耳男と夜長姫』にかなり密接に基づいている。そこにタイトルになっている『贋作桜の森の満開の下』から山賊、鬼などの要素が移入され、さらに安吾のエッセイからヒダの国と大海人皇子のエピソードが引用されている。 ...
青年団リンクがとれて独立した最初の公演。2014年の再演らしい。 僻地の中学校の教室でおきるオカルト的な騒動。演出や俳優陣のがんばりもあってテンションがあがりとてもおもしろかった。 ...
タイトルのインパクトも大きいが、下北沢でなく池袋、実際の日本戦後社会がベースのストレートプレイという、これまでのナイロンからは驚きな舞台だ。 ...
開演前の説明では「儀式」と言っていたが、とある架空の宗教儀式を舞台化したもので、演劇というよりは音楽ライブに来たような感覚だ。陶酔感のある音響・音楽と、役者の苛酷そうな状況(中心部は90℃とモニターに流れた)が観客に一体感とグルーブをもたらす。これまで見た舞台で一番近いのは東京デスロック『再/生』だろうか。 ...