葛河思潮社『浮標』
休憩2回挟んで4時間の長尺。舞台の上でとりたてて何かがおきるわけではないのに、飽きることはまったくなかった。
戯曲の冒頭に「時…現代」と書いてあるが、その現代というのは1940年。太平洋戦争がはじまる前年だが、すでに日中戦争は泥沼に入り、物資も不足するようになっていた。主人公の画家久我五郎は結核を患う妻美緒の療養のため千葉市郊外の海岸で暮らしている。彼自身は創作意欲を失い、絵本の仕事で食いつないでいるが、家賃も満足に払えず借金を重ねている。役者は12人登場するがこの夫婦2人の物語といっていい。
表面的には昨今ありがちな難病・純愛ものの悲劇なんだけど、もっと深く人間の生と死について掘り下げた作品だ。神、科学、転生、そして戦争。
出征した五郎の友人との別れのシーンが描かれて、結核と戦争という当時の比較的若年層が直面する二つの死の形が並立している。でも戦争による死はこの舞台上の世界を覆っている閉塞感を打破してくれるものとしても扱われる。政府による検閲や世相を慮っただけでなく、これは当時の知識人たちの偽らざる実感だったのではないだろうか。もちろん、それは引き続く太平洋戦争の無意味な大量死によって完膚なきまでに裏切られるのだけど。
この作品の一番の見所は五郎の人物造形のリアリティーだ。とことん真摯で、その真摯さを人にぶつけずにはいられない不器用な男。そのくせすぐにそれを後悔して謝る。その傲慢さと卑屈さの対比が興味深い。田中哲司の演技を堪能させてもらった。
作:三好十郎、演出:長塚京三/神奈川芸術劇場大スタジオ/指定席6500円/2016-08-07 13:00/★★★
出演:田中哲司、原田夏希、佐藤直子、谷田歩、木下あかり、池谷のぶえ、山崎薫、柳下大、長塚圭史、中別府葵、菅原永二、深貝大輔