東浩紀『ゲンロン0 観光客の哲学』

ゲンロン0 観光客の哲学

「観光客の哲学」といわれるとバブルの頃はやったような凡俗な消費社会肯定論の亜種を想像してしまいそうになる。しかし「観光客」とは「他者」のことだ。リベラリズムが常に訴え続けてきた「他者を大事にしろ」というポリシーが通用しなくなりつつあるなか、従来まじめな哲学考察の対象とされてこなかった観光客というあり方を通して他者論=リベラリズムの復活を試みた本だ。

大きく二部構成をとっている。

第一部が『観光客の哲学』。いわば本論の部分だ。哲学史を概観してカント、ヘーゲルからはじまり家族、市民、国民をへて世界市民へ至るという認識を紹介しつつも、現実にはナショナリズムとグローバリズムはいつまでも並立したままで、普遍的な世界市民への道やそれを可能にする他者の存在はどこにもあらわれない。そこで、数学のネットワーク理論を援用しつつ、観光客をネグリとハートのマルチチュードの概念に接続する。それも誤配を繰り返す郵便的マルチチュードだ。

第二部は『家族の哲学(序論)』と題されているが、これまでの著者の仕事を観光客の哲学に接続し肉付けするための3つの章からなっている。それぞれ「家族」, 「不気味なもの」、「ドストエフスキーの最後の主体」と題されている。「不気味なもの」はサーバースペース論というかサイバースペース批判なので毛色が違うが、「家族」という前書き的な章を経ての「ドストエフスキーの最後の主体」への展開は、第一部が観念の提示のみで若干物足りなかったのを見事に補ってくれた。保守勢力に利用されがちな「家族」を再定義して、親となることの偶然性に着目し、「子として死ぬだけでなく、親としても生きろ」と、死の哲学から新たな生の哲学への一歩を高らかに宣言している。

一歩一歩着実に論を進めていて変な飛躍がなくとても読みやすい。現代の哲学書はこうあるべきというお手本のような本だった。

ここから先は本書の内容を受けてのぼくの愚考。

本書の第一部で政治的理想をもたない現代のテロリストと観光客の類似性に触れているが、そういうテロリストに標的にされた人たちはまさに誤配もいいところだ。つまり現代のテロリストは偶発的な破壊と死をもたらす郵便的テロリストなのだ(日本の場合は北朝鮮という隣国の存在が同じ効果をもっているかもしれない)。そして彼らの存在に力を得たヘイターたちが非テロリストの一般の移民や難民をターゲットにしているのもまさに誤配だ。彼らがまわす分断の歯車は非常に効率的だ。誤配であるがゆえにまさに分断という目的を最大限に達成できるのだ。そしてより深刻なことにはその分断は共同体内部でも進行してしまう。ナショナリズムとグローバリズムは確かに一時的には並立するが、ナショナリズムは内外の分断のために変質してしまい、どこかでバランスがとれなくなってしまう可能性もあるように感じられる(今起きているBrexitやトランプ当選はそのはじまり)。仮にそうなった場合に観光客の存在および哲学はどう位置づけられるのか。興味がある。