『スピノザ往復書簡集』(畠中尚志訳)

スピノザ往復書簡集 (岩波文庫)

「卓越の士、敬愛する友よ」なんていう呼びかけではじまるメールを一度でいいからもらってみたい。

これはスピノザがさまざまな人々と交わした書簡のうち現存する84通をあつめたものだ。当時は書簡が学術雑誌の代わりをしていたらしく、回覧したり、出版する目的で残されていたらしい。だから、内容もスピノザの思想に関する質問とその回答がほとんどだったりする。スピノザの数少ない著作からだけでは判断できない細部に触れていて、それはそれでとても価値があるものだけど、文章の端々や行間にあらわれるスピノザの人柄や生活態度に興味をひかれる。

温厚で慎重で思慮深い。生活ぶりも質素で、友人が遺した年金や大学教授の職を辞退したりしている。ただし、自分の思想には絶対の自信をもっていて、熱くストレートに教えを説いている。その自信がどこからくるかというと、自分の理性に対する絶対的な信頼だ。スピノザは経験を繰り返しても真理に至ることはできず、理性を突き詰めることによって明瞭に真なものを認識できると考えていた。

宗教的な奇跡を認めず、神や人間の行動を含めてすべてが必然であることを説く、スピノザの思想は、キリスト教の強い影響下にあった当時の社会ではほとんど理解されず、無神論と蔑まれ、危険思想扱いされていた。書簡からそういう空気を十分うかがうことができる。スピノザの門弟だった人が二人までも、のちにカトリック教会に入信し、スピノザを悪魔呼ばわりし、改悛を求める書簡を送ってきている。

当時は言葉のおよぼす力が強大だと思われていたということであり、逆説的にいうと、幸せな時代だったのかもしれない。現代では、言葉は大量生産のゴミにまじって、ほとんど何の価値もなくなっている。誰も、書いた言葉のために火あぶりにされることはないが、相対化という波にさらされて言葉はさびつくしかない。いや、スピノザでさえ、ほとんどの人間を説得できなかったし、門弟に離反されてもいる。ロゴス=言葉=理性は常に敗北を義務づけられているのかも知れない。

だが負けても負けても、理性以外ぼくらが頼れるものは何もない。もちろん、理性も間違えるけど、その間違いを認識するのもまた理性なのだ。それに、300年以上前のコネも権威もないオランダの哲学者が交わした手紙がまだ残っていて、それを日本語で読めるということは、理性の勝利といえないだろうか。もちろん連戦連敗の中の極めて小さな勝利だが。