遊園地再生事業団『ジャパニーズ・スリーピング/世界でいちばん眠い場所』
作・演出:宮沢章夫/座・高円寺/指定席4500円/2010-10-16 19:00/★★★
出演:岡野正一、上村聡、川口聡、田中夢、牛尾千聖、山村麻由美、宮崎晋太朗、今野裕一郎、伊沢磨紀、やついいちろう
遊園地再生事業団3年ぶりの本公演。主宰の宮沢章夫さんが病気からの回復後ははじめてということになる。なんだか遊園地再生事業団の前回公演『ニュータウン入口』は昨日のことのように記憶が鮮明なのに、宮沢さんの病気ははるか昔のことに思えて、時間の遠近感が混乱してしまった。
テーマは眠り。明確なストーリーはない。というかできるだけ物語から離れようと全速力で走ったような作品。強いていうなら、3人の最近まったく眠った覚えがないという男たちが、眠りというのがどういうことか、さまざまな人にインタビューしながら、世界でいちばん眠い場所を探すというただそれだけの抽象的な骨格のようなものだけがある。3人の男は同じ服装で同じ言葉を話し、実は同一人物のようにも思える。出来事というかインタビューは「チャプター」という単位でシャッフルされて何度か繰り返される。そして、古今東西の文学作品や歌からの眠りに関する部分の朗読や、舞台に登場しないさまざまな人たちにインタビューした映像が合間にはさみこまれる。
劇中で何度か示唆されるように実は裏テーマがあって、それは死だったりする。眠りと死はどこか共通しているし、眠れない男が書きかけの小説に、練炭自殺をする8人の男女のエピソードや、「草と遊ぶ人」と呼ばれる精霊的な存在が登場する(もっとも物語として膨らみそうな箇所だが、やはりそれはとことん拒否する)。ラストシーンも眠りというよりは死なのではないか。
俳優たちの動きがどこかチェルフィッチュみたいだなと思うところが何箇所かあって(もちろんチェルフィッチュにいちばん影響を与えた日本の演劇は遊園地再生事業団じゃないかと思っているが)、つい同じ態勢でみてしまいそうになったけど、チェルフィッチュには抽象化はされていても現代日本の若者の日常という物語の基盤がちゃんとあるので、物語への距離感は、遊園地の方がはるかに遠い。逆に、チェルフィッチュは言葉をあたかも歌詞のような道具として使っているが、遊園地の方には言葉とその背後の文化への信頼というものがある。かなりねじれているのだ。
はじめからラストまでみて、それで完結というタイプの作品ではない。むしろ、もういちどチャプターを巻き戻して最初からみたくなるタイプの作品だ。そして、この舞台の外の世界のことを考えて、それが今までと少し違っで見えることに気がつく。そういう想像力への働きかけが遊園地とチェルフィッチュのいちばんの共通点だと思う。
役者では牛尾千聖の声が凄く印象的だった。ずっと耳に残って引っかかるような声。そして、遊園地メンバーの上村聡が、自分の役割を完全に理解しているような演技で、なんか3年の間にすごく成長した気がした。
ところで、ネットの評判などをみると眠っていたというのにほめている人を多く見かける。実はみんなそれぞれの夢の仲で素晴らしいシーンをみているのかもしれない。ぼくはずっと集中していたつもりだけど、実はかなりの部分が夢だったのだろうか。だとしたら、とてもいい夢だった。
追記:
演劇関係者から「物語の解体」なんてもういかにも80年代的でもう古いなどという酷評を受けていたりしたが、確かにとことん物語を避け続ける姿勢は、観客に欲求不満を与える以外の効果をあげていたとも思えないし、ちょっとかたくな過ぎる気もした。だから、前作は、欠点のない成功した作品ではまったくないと思う。前作の観客でつまらなかったという人がいたとしても、これに限っては、見る目がないとかはまったく思わず、それはそうかもしれないと思う。ぼくの場合、たまたま琴線に触れるものがあった。ただそれだけだ。