大澤真幸『戦後の思想空間』
日本の戦後思想を題材にとった三回にわたる講演の内容をまとめた本。
歴史の年表を現代から60年過去にずらして重ね合わせてみると、いくつか重要な出来事が対応しているのがわかる。そう考えれば、今(1997年)は戦後ではなく、戦前である。戦後というスパンで思想を語る意味もそこにある。思想というものから戦争をみた場合、表現の困難さとしてとらえられ、戦後になるとそれがいきなり解消する。困難さを克服できたのは「アメリカ」という超越的な他者のおかげである。戦後は右も左も「アメリカ」に依存してきたが、70年代以降「アメリカ」はその位置を失って、「日本」がとってかわった。つまり、日本人であることが世界性へと短絡されてしまい、逆に日本人という限定が意味を失っていった。というところまでが第一回。
時代は戦前にもどって、田辺元、西田幾多郎、和辻哲郎など日本の錚々たる哲学者たちが唱えた「近代の超克」論。超国家主義の理論的な裏付けに利用された思想だ。この思想は現代のポストモダン思想と対応させることができて、たとえばその中の「世界史の哲学」と呼ばれるものは、今のマルチカルチュラリズム(多文化主義)とほぼ同じで、実践が民族主義的になってしまうところまで似ている。また、広義の資本主義というのは、普遍性を保証する超越性を次から次へとより高度なものへとダイナミックに置き換えていく運動なのだけど、つまりそれは真に超越的なものは存在しないことを意味している。それが逆転して超越でないもの、つまり内在しているものこそが真に超越的だというふうになっていく。天皇というのはそういう存在だったのではないか。というところまでが第二回。
最終回は「戦後・後」の思想つまり70年代以降の思想についてふれている。70年代は柄谷行人などの、世界や人生の意味をささえている理念がないということの解放感に支えられた思想がはやり、80年代にはいると思想はカタログ化され、商品として消費される消費社会的シニシズムといっていいような状態になる。浅田彰や蓮見重彦がその代表で、彼らはその流れをとめようとしたけど結局は荷担してしまった。シニシズムというのは、スローターダイクによれば、四種の虚偽意識のうちもっとも進んだもので、「そんなこと嘘だとわかっているけどわざとそうしてるんだよ」という態度をとる。そこでは啓蒙はいっさい通じなくなってしまう。このあと、唐突にデリダのハイデッガー論に入り、そこからオームの話につながる。最後は超越的な他者がいないという状況での「自由」というものの困難の話で幕がひかれる。最近読む本には自由あるいは自由主義の困難の話が多い。ほんとうに困難なのだろう。
講演という形態のせいだろうが、結論ありきというか、その論理でいけば何でも証明できてしまうような気がしたのがひとつと、あと特に最終章は話題が広範囲に広がりすぎて散漫になった気もする。
★★