仲正昌樹『「不自由」論―「何でも自己決定」の限界』

「不自由」論―「何でも自己決定」の限界 (ちくま新書)

どうにも読みにくかった『バカの壁』の中で、印象に残ったのは、個性をのばすなどということより「共通了解」の方が大事という部分だったのだが、これはそのあたりをさらに哲学的につっこんだ本だ。

ゆとり教育の論理の中にあった「自由な主体」を批判するところからはじまる。つまり、生徒が自ら学び、自ら考えるといっても、目的や枠組みがあって主体性があるのであり、何もないところに主体はない。またその主体性ももとからあるものではなく、教育によって作られていくものだ。というところからはじまって、アドルノやアーレントからさかのぼってルソーなどの「人間性」に関する基本的な言説を紹介してゆく。この部分、倫理・社会の教科書を読んでいるようでエキサイティングだった。

結論としては、「自由な主体」の前提である普遍的な人間性なんていうものは存在していなくて、あったとしても西欧のごく一部でしか有効でないローカルなものであるということだ。「自己」というのはもともと他者の助けをかりて作られたものだし、いったん自己が確立してからも、他者との関わりや、まわりの状況の中で意味をもつものに過ぎない。そういう面から、ゆとり教育や、安易な自己決定論に批判が加えられる。

最終章では、普遍的な人間性というものに基づいているリベラリズムという思想が、コミュニタリアニズム(共同体主義)とリバータニズム(自由至上主義)という両極から挟撃されているという現状を紹介している。そういう状況からの出口として提示されているのが、ひとつはコーネルの「イマジナリーな領域に対する権利」で、つまりは「自由な主体」という神話の代わりに、主体となる「自己」を選択する権利を保障するという考え方だ。もうひとつは、ハート・ネグリの大作『帝国』の中に出てきたマルチチュードと呼ばれる緩い集合体で、これを主体性幻想にとらわれない運動の形として、挙げている。

全体的な議論の流れには同意できるが、最後に提示された、「イマジナリーな領域に対する権利」と「マルチチュード」に関しては楽観的すぎるような気がする。前者は理念的すぎるし、後者は、ネットでのつながりをみると、現時点では2chを例とするような、排他的で、他者を排除するような集団にもなりうると思う。

エピローグに書かれた次の言葉はすばらしい。

哲学・思想が「分かる」というのは、それまでの「自己」の在り方を見直すきっかけを見出した、ということである。それまで自分では気付いていなかった、自己を取り巻いている共同体的な諸文脈を意識化して、自己を再想像する契機が生まれてこなければ、「分かった」ことにはならない。

★★★