夏目漱石『行人』ebook

行人

この劇の元ネタということで、ひさしぶりに再読。劇は小説から弟が兄の妻と同じ室に一泊するというシチュエーションを借りているだけで全く別物のつもりで見ていたが、あらためて小説を読むとセリフや人物設定など思ったより引用されているのだった。

この時代の小説を読むといつも意外に感じるのが生活水準の高さだ。食後のプリン(プジング)なんかがふつうに出てくる。休みなども今より断然多くて、平気で数週間の旅行に行ったりできるし、文化的活動に多くの時間を費やしている。もちろん、それは登場人物の階層が高いからそうなのであって、一般庶民の生活はこうはいかないだろう。でも新聞小説として連載されたものなので、新聞購読者の平均からそうは隔たってないはずだ。それから数十年後にあの愚かな戦争に一丸となって突入したことが信じられない。

さて、劇で描かれた三角関係的なものはこの小説の中にも描かれている。思索的で孤独癖が強く、感情的で感傷的な兄、いつも落ち着いていて冷酷にすら見えてしまうその妻。彼らの関係は当然のようにうまくいかず、隙間風が吹き続けている。それを端から見て心配する弟(語り手)。彼は兄嫁の今でいうクールビューティーなところに憧れのような感情を抱いている。途中までこの三角関係的な描写がサスペンスフルなのだが、漱石が病気で半年間休載した後書かれた部分では、スポットライトは語り手の弟や兄嫁を離れ、兄にのみあてられる。兄の友人の目を通して神経を病んでいる兄の様子が切実に描かれるのだけど、現代の目から見ると実は彼の苦しみは現代の向精神薬でかなり改善できるような気がしてしまう。知の働きが強すぎて一種の完璧主義から苦しみを覚え、自然の境地を求めるが、知が邪魔をしてそこにたどり着けないというのは、普遍的なものだが、もはや当たり前すぎてどうしてもつらいのなら薬やカウンセリングで緩和しつつ、共存していくしかないものだという気がする。それよりはこの擬似三角関係の行く末を見たかったというのが現時点での感想だ。

『行人』というタイトル通り、かなりの部分旅の情景が描かれている。第1部は大阪にかつての下宿人夫妻と入院中の友人を訪ねる話で、第2部は家族の和歌山旅行、第3部は東京が舞台だが、東京の生活は旅をするようにめまぐるしい。第4部は上述したように兄と友人の伊豆、箱根旅行だ。新聞小説なので読者を楽しませる趣向が必要だったのだろう。ロードムービーのようだ。