戸田山和久『哲学入門』
タイトルから、古今東西で培われてきた哲学という壮大な分野全体への入門書と勘違いされそうだが、ある意味本書で扱うのはそのほんのごく一部、しかもかなり端の方とみなされてきた部分だ。自然科学が発達した現代、哲学が扱う領域やスタイルも変わってしかるべきじゃないかという筆者の問題提起、つりがこのタイトルにこめられているわけだ。
本書のテーマは、唯物論つまりこの世は「物理的なものだけでできており、そこで起こることはすべて煎じ詰めれば物理的なもの同士の物理的な相互作用に他ならない」という考え方を前提としたときに、「意味」や「目的」等「ありそでなさそでやっぱりあるもの」をどうやって位置づけるかということだ。端の分野と書いたが、テーマとしてはむしろ主流の哲学がずっと扱ってきた問題だったりする。「ありそでなさそでやっぱりあるもの」として取りあげられるのは「意味」、「機能」、「情報」、「表象」、「目的」、「自由」、「道徳」。それぞれ一章ずつ割いて物理的なものだけから成り立っている世界にこれらの「存在もどき」の位置づけがおこなわれる。そして最後にずばり「人生の意味」についての考察。確かに『哲学入門』というタイトルにふさわしい構成になっている。
どこかひとをくったようなユーモラスな文体とうらはらに徹頭徹尾地に足のついた議論。あまり有名じゃない現代の哲学者たちの議論を丁寧に追っていく。前半はルース・ミリカンの独壇場。目的、表象、機能などに「正しさ」、「間違い」という概念を進化の流れをから持ち込もうとしているのでだけれど、そこに違和感を感じた。進化は基本無目的なものであり、そこに一定の方向性を見いだすのは人間の勝手な解釈で、それは今説明しようとしている目的とか意味からきているんじゃないか、と循環論のにおいを感じてしまったのだ。自分と物理的にまったく同一で心理状態も当然一致するレプリカが進化と関係なく沼から突然発生したというスワンプマンの思考実験でも、進化から生まれた方の表象が有意味でレプリカの方が無意味というふうになってしまうのは、進化や歴史が形而上学になってしまっているからだと思えてしまう。
進化や歴史を持ち出さなくても現在あるものの中で似たようなものを比較することで、「正しさ」、「間違い」というのはある程度担保できそうな気がするがどうなんだろう。もちろんそれくらいのことはとうのむかしに議論されているはずだと思うが。
というわけで違和感は残るものの、物理的な世界の中に「ありそでなさそでやっぱりあるもの」を書き込むというテーマはとても興味深いし、ヴィヴィッドだった。個人的にもスピノザ(本書の中では一度だけさらりと名前が登場する)を読んでからずっと心に引っかかっているテーマだった。もちろん内容をすべて消化できたわけではないので、これからほかの本を読んだりしながらこのテーマを自分の中で深めていきたい。