前野隆司『脳はなぜ「心」を作ったのか 〜「私」の謎を解く受動意識仮説』

脳はなぜ「心」を作ったのか「私」の謎を解く受動意識仮説 (ちくま文庫)

著者は脳科学者でも心理学者でもなく、ロボット、コンピュータに明るい工学畑の人。明晰でわかりやすい文章ですらすら読むことができた。

人間の「意識」は何のためにあるかという疑問にあっさり答えてしまう本。著者の主張はとてもシンプルだ。「意識」=「私」は、心の持つその他の機能、「知」、「情」、「記憶の学習」などの小人たち(モジュール)が動作した結果を受動的に受け取って、あたかも自らが主体的に意図したかのように錯覚する存在に過ぎないというのだ。なぜそんなものが存在するかというと、エピソード記憶を効率的に行うためだ。エピソード記憶というのは私たちの体験を日記的に記憶するものだが、そのためのロギングシステムとして「意識」は存在する。

なぜ<私>(自らが生き生きと自分の意識のことを振り返って、ああ、これが自分の意識だ、と実感し続けることのできる、個人的な主体そのもの)だけが<私>なのかという哲学上の問題を解決したと、著者は考えている。<私>は唯一無二のかけがえのないものではなく、単に<私>というクオリアを<私>と感じるだけの無個性な幻想にすぎず、すべての人間が等しくもっているものだ。

著者の主張は、いわば外側から型どりをして、「意識」や<私>はこういう形ですよ、というもので、<私>の一インスタンスであるこのぼくからみると、内側の神秘は解消されていないような気がどうしてもしてしまう。それはおそらく、本書でも書かれているように、クオリア問題に帰着するのだろう。著者によれば、クオリアの神秘は、言葉が意味をもつ神秘と同型で、多次元化、複雑化したものに過ぎない。だからそこには神秘などないのだ。

ある意味、本論部分は身も蓋もないが、以下のサブトピックはとてもラジカルで、勇気を感じた。

  • 脊椎動物には多かれ少なかれ心というものがあり、心があるロボットも作れる。将来は動物やロボットにも人権を拡大することになるかもしれない
  • たとえ自分が死んでも<私>という存在はあちこちにありふれているのだから、死を恐れる必要などない、その認識が広まれば宗教は不要になる