三浦俊彦『ラッセルのパラドクス ―世界を読み替える哲学―』
Rという集合を「自らを要素として含まない集合」と定義する。このときR自身はRに含まれるだろうか。含まれるとすると「自らを要素として含まない」という定義に反するし。含まれないとすると、「自らを要素として含まない」という定義に合致してしまうのでRに含まれることになり、これまた矛盾だ。これは発見者に因んでラッセルのパラドクスとよばれ、勃興したばかりの論理学に深刻な打撃をもたらした。
このパラドクスはラッセル自身のタイプ理論によりひとつの解決が与えられている。集合でない個物をタイプ0とし、タイプ0のものを要素とする集合をタイプ1とし、タイプ1のものを要素とする集合をタイプ2とし、以下同様に続き、これ以外の集合を許さない。こうすれば、「自らを要素として含まない集合」というように複数のタイプの要素が混在するような集合はそもそも考えられないことになり、問題は生じない。
このように純粋な論理学では名を残しているラッセルだが、哲学に踏み込んでしまうといまひとつ評判が芳しくなく、若輩のウィトゲンシュタインにやすやすと乗り越えられた人間というレッテルをはられている。確かに、ウィトゲンシュタインの『論理哲学論考』に的はずれな序文をつけたり、ウィトゲンシュタインに言い負かされて執筆中の著作を断念したりということがあり、またウィトゲンシュタインの「深さ」に比べれば、ラッセルには明らかに「浅さ」を感じてしまうのだが、その浅さの中に多様な成果があったということを再発見させてくれる本だ。
本人が認めているように最大の成果は記述理論に関するものだ。たとえば「20世紀末日の日本の大統領は、女性だった」という文を理解するにはどうすればいいだろう。少なくとも20世紀末日に日本の大統領は存在していないわけで、それの性別をいわれても、困ってしまう。ラッセルはこの文は「あるxが存在しており、xは20世紀末日に日本の大統領であり、すべてのyについてもしyが20世紀末日に日本の大統領ならyはxと同一であり、かつxは女性である」と言い換えられるという。これならこの文が偽であることはすぐにわかる。「20世紀末日の日本の大統領」というのはこのように言い換えられるべき「論理的虚構」だったことになる。「夏目漱石」等の固有名もまた論理的虚構である。
それでは論理的虚構でない実体に何があるかというと、ラッセルは、目や耳などの感覚器より入力されるセンスデータがそうだと考えていた。リアルなのは「私が椅子をみている」というセンスデータで、「私」も「椅子」もそれから構成される論理的虚構だというのだ。
さらには、これらのセンスデータを物理的系列で並べれば物質が生まれ、心理的系列で並べれば心が生まれると説き、エルンスト・マッハとウィリアム・ジェイムズが示唆した中性一元論に肉づきを与えている。
さて、ウィトゲンシュタインは1951年に62歳で死んだが、17歳年長のラッセルは1970年に97歳で大往生している。ある意味健康に長生きすることはそれだけで真理とよばれるものを含んでいるような気がする。浅さというよりは絶えず自分の足場を崩しながら前に進んでいく軽さ、それが長生きの秘訣であり、真理に近づくひとつの道かも知れない。