大学入試の問題に出題された4人の哲学者野矢茂樹、永井均、中島義道、大森荘蔵の文章を題材に、解説者、出題者、本書の著者、そしてオリジナルの文書を書いた執筆者自身、というさまざななレベルの誤読を対照することにより、それぞれのテーマを深く読解する。 ...
中学生の翔太がインサイトという猫に導かれるように、さまざまな哲学的問題について考えてゆく。たとえば、「実はぼくらは培養器の中の脳で、現実はそこで見せられている夢」という考えには意味があるかどうかとか、「他人に心があるか」とか、「ぼく」という存在の特別さとか、善悪の基準の妥当性とか、「ものごとがわかる」というのはどういうことかとか、自由意志はあるかとか、そして死を体験することはできるのかとか。 ...
タイトル買いしたのだけど、読みたかったのとは対極的な本だった。まず前提となる現状認識がちがっていて、筆者は日本人がもともともっていた宗教心はすたれて無神論的な態度が主流になっていると考えているのに対し、ぼくは今でも宗教心は日本人の行動を陰ひなたで律していると感じている。それで、ぼくはその宗教心というものを分析的に明らかにしてほしかったのだけど、筆者はそういう分析的な態度を西洋の一神教由来のものだと切り捨てている。ついでに、ぼくが仏教を評価するのはその合理性なのだけど、筆者はその原始的なエネルギーや日本の風土との親和性をもちあげる。 ...
日本人は見ず知らずの他人への信頼感が希薄で、同じ社会を構成しているという一体感がない。というより、「社会」とそれを構成する「個人」といった西洋的な考え方(と一応書いてみたがぼくは「社会」も「個人」も西洋でたまたま最初にうまれただけで普遍的なものだと考えている。もちろん「世間」もそうだ)が(まだ?)根付いていないのだ。「社会」や「個人」に代わって、日本では人のまわりを「世間」が重層的にとりまいている。「世間」の中で位置を占めることによって人ははじめてアイデンティティを得ることができるが、同時に人をその位置に束縛するものでもある。 ...
いきなり映画『マトリクス』の話題からはじまるので、とっつきやすいかと思ったが、パラフレーズのためにたちどまることをしない、スピード感あふれる文体で、ついていくのがやっとというより、味わえたのはスピード感だけという状態で最後のページにたどりつきそうになったところで、これでは読んだことにならないということに気がつき、急遽昔読んだカントの入門書を再びひもとき、それから再び本書に手をつけたのだった。 ...
『これ(ライプニッツのこと)に対して、スピノザの難しさは一見したところのさらに先にある。すなわち、一見したところもけっしてやさしくないが、より大きな困難は、深く立ち入るにつれて見えてくるように思われる「粗雑さ・荒っぽさ」によって、われわれの勇気がくじかれてしまう危険なのである。なまじ哲学的素養のある人ほど、やがて疑惑にとらわれることになる。「はたして本当に偉大な哲学者なのだろうか?これ以上この学説に取り組むことに、どれだけ意味があるのだろうか?」。このような疑問が「専門家」をとらえやすいのは、この哲学者の言葉づかいが伝統的なそれと大きくずれていて、何か恣意的な、アマチュア的手仕事のように感じさせるという点が大きい』 ...
事典といっても一般的な哲学の用語や概念の解説がメインではない。「愛と暴力」、「法と革命」という見出しからわかるように二つの概念を衝突させることで、そこから今まで存在していなかった新たな意味を生み出そうとしている本だ。 ...
本書の「はじめに」にも書いてあるが、哲学の解説書は読まない方がいいそうだ。いきなりパラドックスかと思うが、本書は単なる解説書ではなく、ウィトゲンシュタインが『論理哲学論考』(以下『論考』)を書いた地点に読者を案内することを目指している。 ...
Rという集合を「自らを要素として含まない集合」と定義する。このときR自身はRに含まれるだろうか。含まれるとすると「自らを要素として含まない」という定義に反するし。含まれないとすると、「自らを要素として含まない」という定義に合致してしまうのでRに含まれることになり、これまた矛盾だ。これは発見者に因んでラッセルのパラドクスとよばれ、勃興したばかりの論理学に深刻な打撃をもたらした。 ...
筆者は1970年生まれのノルウェーの哲学者。 ぼくは退屈というのはあまりきらいじゃなくて、どこか優雅なものだとさえ思っていて、この本を手にとったのも小さくて優雅な退屈を味わえるかなと思ったからだ。だが、筆者が問題にしているのは、ぼくが思い描いたような「状況の退屈」つまり「ある決まった状況でのある明確な原因による退屈」ではなく、「実存の退屈」つまり「何をしていいかさえわからず人生の目標を失ってしまったときの退屈」だ。 ...
「卓越の士、敬愛する友よ」なんていう呼びかけではじまるメールを一度でいいからもらってみたい。 これはスピノザがさまざまな人々と交わした書簡のうち現存する84通をあつめたものだ。当時は書簡が学術雑誌の代わりをしていたらしく、回覧したり、出版する目的で残されていたらしい。だから、内容もスピノザの思想に関する質問とその回答がほとんどだったりする。スピノザの数少ない著作からだけでは判断できない細部に触れていて、それはそれでとても価値があるものだけど、文章の端々や行間にあらわれるスピノザの人柄や生活態度に興味をひかれる。 ...
永井均の<この私>の謎に脳科学の側から迫ろうとした本。 科学的には脳内の1000億の神経細胞の活動から意識がうまれることに間違いない。脳内を見渡す「小さな神の視点」、「感覚的クオリア」と「志向的クオリア」、「メタ認知」という興味深い概念を最新の脳科学の知見をまじえて紹介したあと、本書では主体の構造のモデルとして「メタ認知的ホムンクルス」というモデルが提案されている。外部からの刺激で脳内に擬似的な客体が生まれ、それにより脳内の各領域に起きた神経細胞の活動の関係性を擬似的な主体がメタに把握するというモデルだ。自分の理解のためにコンピュータの比喩で擬似的な客体がデータ擬似的な主体がプログラムとすると、プログラムが意識を持つわけではなくデータの集合が意識になるわけでもなく、プログラムがデータを処理する関係性の中に意識が生まれるということになる。 ...
日本とドイツは似ているといわれる。ともに第二次世界大戦で敗北し、その結果民主化されて経済発展したし、勤勉な国民性が似ているといわれることもある。その両国の戦後の思想状況を「過去の清算」を軸にして比較してみようというのが本書のテーマだ。 ...
クリティカルシンキングの入門書。クリティカルシンキングというのは、聞いたこと、読んだことをそのまま信じるのではなく、かといって聞く耳をもたずその場で否定することでもなく、相手の主張を批判的に吟味して正しいかどうかを見極めるための方法論だ。 ...
定義があって公理があって定理とその証明がある。まるで幾何学の本のようだ。そう、実際スピノザは幾何学の定理の正しさを証明するように、自分の哲学の正しさを証明しようとしたのだ。でも、それが成功しているかといわれると微妙だ。証明のかなりの部分は言葉の言い換えにしかなっていなくて、むしろいらないのではないかと思ったりもする。((ウィトゲンシュタイン『論理哲学論考』は『エチカ』から証明を省いたスタイルといえないこともない。この二つの書物はスタイルも似ているし、その偉大さも共通している。余談だけど『論理哲学論考』のタイトルはスピノザの『神学政治論』をもじってつけられている。)) ...
1000円前後で気軽に読めるスピノザの入門書がずっとなかった(G.ドゥルーズ『スピノザ 実践の哲学』はさすがにちょっと難解だ)。確かに哲学史の流れでいえばスピノザは傍流だし、その後ほとんど発展しているようには見えないけど、それはそのままで完成しているからのような気がする。 ...
立心偏に生きると書いて「性」だけど、ちょっと世の中それに振り回されすぎだなと思うことがある。少なくとも男性にとっては、それはそれほど気持ちのいいものではない。だから、多くの男性はもっと気持ちのいいことがあるのではないかと妄想をふくらませ、身勝手な欲望を抱いたりするというのが、本書の洞察のひとつだ。男性としての自分の身体をきたないものと感じる自己否定の気持ちが、さらにその欲望を手に負えないものにしている。 ...
科学(正確には自然科学)は人間の知的活動の中でもっとも成功しているものといっていいだろうが、それじゃ、その科学っていったいどういうもの?といったことを研究している学問も別にあって、「科学哲学」と呼ばれている。 ...
ウィトゲンシュタインの入門書は二冊目。今回はウィトゲンシュタインの哲学そのものではなく永井均からみたウィトゲンシュタインというのが読みたくて手に取った。 ...
『ツァラトゥストラかく語りき』を読んだのはもうはるか昔のことだ。哲学書として読もうとしたわけではなく、リヒャルト・シュトラウス作曲の音楽にひかれて手に取ったのだが、年端のいかぬ子供に理解できるわけもなく、難しい漢字と旧仮名遣いを覚えただけだった。それでも何がかっこよくて何がかっこわるいかを教えてもらえたし(復讐心とか同情はかっこわるい。無条件な肯定がかっこいい)、今でもニーチェは好きな哲学者ベスト3に入っている。 ...