ラース・スヴェンソン(鳥取絹子訳)『退屈の小さな哲学』

退屈の小さな哲学 (集英社新書)

筆者は1970年生まれのノルウェーの哲学者。

ぼくは退屈というのはあまりきらいじゃなくて、どこか優雅なものだとさえ思っていて、この本を手にとったのも小さくて優雅な退屈を味わえるかなと思ったからだ。だが、筆者が問題にしているのは、ぼくが思い描いたような「状況の退屈」つまり「ある決まった状況でのある明確な原因による退屈」ではなく、「実存の退屈」つまり「何をしていいかさえわからず人生の目標を失ってしまったときの退屈」だ。

筆者は「退屈」の歴史をひもとくなかで、後者の退屈が近代に顕著な現象だとして、特に18世紀末に生まれたロマン主義という風潮にその源流を見いだしている。個人の主観のみが絶対的な判断基準になってしまうと、その主観そのものも相対化されて価値を失い、結局絶えず「違反」を繰り返すことでしか満足を得られなくなり、その度にかえって何かを失ってゆく。そういうロマン主義由来の退屈の流れが、現代の文学、映画、美術などに息づいているのを、文芸批評的にたどる。

次にハイデッガー。ハイデッガーといえば「不安」の分析で有名だが、ここではあまり知られていない「退屈」に関する分析を紹介している。人間が何かを認識するのは、「気分」というものが根底にあってのことだ。気分は人の内部にあるわけではなく、かといって外部の世界にあるわけでもない、世界内存在というぼくたちの存在形式にとって根源的なものなのだ。「退屈」というのは世界の可能性が後退する「気分」だ。一般的に「退屈」は人間性を失わせてしまうが、ハイデッガーはこの「退屈」という気分を、本質的でない日常から、「憂愁」という哲学するのに欠くべからざる根本気分への道を開くといっている。だが、筆者は、結局それもロマン主義の主観の代わりに「存在の意味」がきただけで、退屈が乗り越えられるというのは、ロマン主義の違反の論理と同じじゃないかと、痛烈な批判をハイデッガーになげかける。

退屈という現象のまわりを迷路のようにぐるぐるまわってきたこの本の結論は、「退屈には解決法がない」ということだ。その結論にはなるほどとうなずけるものの、この本を最後まで読み通した賞品としてはいささかさみしい気がしないでもない。なにしろぼくにとって、この本はとても退屈だったからだ。途中のハイデッガーのところで、筆者は不安というものをほとんど感じたことがないと書いていて、強い驚きを感じたのだが、そういうぼくは不安はかなり支配的な気分で、その代わり退屈はそれほどは感じない。ひょっとすると、不安と退屈は相反する気分なのだろうか。退屈にひどく悩まされている人にとっては、本書は切実かもしれないが、自ら軽い退屈を求めてしまうようなへたれた退屈者にとっては逆に退屈に感じられたということかもしれない。