加藤陽子『それでも、日本人は「戦争」を選んだ』

それでも、日本人は「戦争」を選んだ

刊行されたのはもう2年近く前だけど、東日本大震災と原発事故のコンボで第二の敗戦なんていう向きがある昨今、なかなかタイムリーな本だった。

タイトルからてっきり一般の日本人が戦争の時に何を考えたかと本かと思っていたが、明治維新以来日本がかかわった戦争について、日本や関係国の為政者や軍人がなぜ戦争という手段を選択したのかということについて、最新の研究成果から解き明かしてくれる本だった。

東京大学大学院の日本近現代史専攻の先生が、栄光学園の歴史研究部に所属する中高生たちに講義するという形をとっていて、まさに絶妙な難易度になっていた。この時代の歴史は一番大事で誰もが知っておくべきだと思うのだが、授業ではあとまわしにされるか、時間に収まりきらず触れずじまいになってしまうことが多そうだ。ぼくを含めてそういう人たちには、あらためて学ぶための絶好の本だと思う。

日清戦争、日露戦争、第一次大戦。これら3つの戦争で、(日露の犠牲は大きかったが)日本は着実に戦果を勝ち取ってきた。それは、当時の日本の為政者たちがまわりの状況を的確によみとり、軍事的にも果敢に斬新な戦略を採用したからだということがわかる。第一次大戦でも日本はわずかな犠牲で一定の戦果を得るが、しかし世界の流れが変わって、日本への風あたりが強くなったことに気がつく。それが危機感を生む。

そして、日中戦争、太平洋戦争へと突入していくわけだが、これらはほんとうにひどい戦争だった。陸軍は暴走しまくり、為政者たちは状況の読み誤りを重ねた。それには、軍のクーデターの動き、政治家の暗殺、新聞のボイコットなどあるわけだが、数として半数をしめていた農民層が軍のうちだす福祉国家的な政策を支持したということが背景にあったようだ。個人的な感想だが、軍は確実に効果があるすごい作戦を思いついてしまって試したくてしかたなかったということもあるのだろう。それは実際、真珠湾をはじめとして緒戦の圧倒的な勝利につながるわけだが、長続きするものではないことはわかる人にはわかっていた。すべてを楽観的に考えてどうにかなるだろうという甘い見通しのもとにはじめてしまったのだ。

ドイツなどと比べても、日本の兵士、国民の人命の軽視ははなはだしかったようだ。食料を生産する農民を早くから兵士として戦線に送り込み、食料の生産が激減し、また兵士へ補給路を確保しないまま戦線を拡大し、結果として戦闘による死者より餓死の方が多いという状況を作り出してしまった。それが捕虜を安易に殺戮したことにもつながっている。今回の震災や原発事故への対応をみていると、まだその傾向は完全には払拭できてないような気がする。

日清戦争以降日本が参加したすべての戦争の目的は「安全保障」で、これは他国と比較するとかなり珍しいことらしい。資源が少なく産業も貧弱な日本が生き残るためには、海外領土の確保が生命線という意識だったのだ。それに対して、日本は持久戦を戦えない国だから、通商関係を維持することこそが生命線だと、まともなことをいう水野廣徳という軍人がいたのだが、検閲され無視されてしまったそうだ。

日本はずっと「安全」ということに関して冷静な判断ができないでいるようにみえる。具体的な人命の他に別に「安全」というユートピア的な何かがあるように感じているのではないだろうか。それを「国体」と言い換えてもいいような気がなんとなくしている。「国体」とは目に見えないどころかどこにも存在すらしない「安全」のことだったのではないだろうか。原発に関してもエネルギーの安全保障ということを抜きに語れないわけで、地続きの問題なんだな、と意識をあらたにしたのだった。