村上春樹『ノルウェイの森』

ノルウェイの森(上)ノルウェイの森(下)

元旦にトラン・アン・ユン監督の映画をみて、読み直そうと思った。

みているときにも感じたが、結局のところ、映画はきれいな映像つきのインデックスのようなものだった。その映像美を堪能するだけで十分価値はあるが。主要な出来事がどんな様子でどういう順番で起きたかということは、ちゃんと伝えてくれる。でも映画は小説を読む体験の代替にはまったくならない。ストーリーの流れに関係ないエピソードが削られているというのも、その理由の一つだが、映画はあくまでこの物語をラブストーリーとして描こうとしている気がした。確かに、発刊時に大ベストセラーになったこともあり、この作品はほかの村上春樹作品とはちがった受けとめ方をされてきたけど、今読むと、ぶれていないというか、他の作品同様、生と死、そしてある種のどうにもならなさを描いた作品だった。表面的には「ラブ」の要素が強い作品だけど、映画はことさらその描写に時間を割きすぎたような気がする。

映画では、主人公ワタナベトオルが女漁りを続けながら二股をかける軽薄なやつに見えてしまったが、原作では途中で女漁りを絶って禁欲的な生活をする様や、緑との関係もきっぱりと一線を守る様が描かれていて、(ロマンチックラブイデオロギーの元での)形式的な「正しさ」は確保されているように思えた。でも、それがなおさら、ワタナベトオルと直子の関係が「ラブ」ではなかったことを証していて、それを「ラブ」で処理しようとしたところに、ワタナベトオルの欺瞞がみえてくる。良くも悪くも性というものが若い男女の関係の礎に今以上になっていて、生きづらさもあったろうと思う。この小説の登場人物たちも今ならもう少し楽だった気がする。このような物語は生まれないかもしれないが。

もうひとつ。映画では、レイコさんが上京してきてワタナベトオルとセックスをするシーンがいかにも唐突だったが、小説では、直子の葬式をやりなおすためにギターで51曲演奏したあと、流れの中で自然にそういう合意がうまれるのだ。レイコさんは直子とほぼ同じ背格好で、彼女が遺した服をきている。レイコさんは直子の身代わりとしてそこでワタナベトオルと交わり、彼を解放して、新しい人生へと送り出す。彼女はそのためにそこにきたのだ。

あと、映画で省略されたシーンの中では、ワタナベが緑のお父さんを看病する場面が好きだ。エウリピデスについて話し、キウリを食べさせる。『1Q84』で天吾が意識不明の父親の枕元で話しかけるシーンを彷彿とさせる。

この小説で残された最大の謎。それは寮で主人公と同室だった「突撃隊」の突然の失踪だ。それは最後まであかされない。地図マニアで、とても他人とは思えず、個人的にはこの作品の登場人物で好感度ナンバーワンだ。「突撃隊」がこの小説世界の何所かで幸福に暮らしていることを願ってやまない。