夏目漱石『虞美人草』
夏目漱石の代表作のひとつなのにその存在を忘れていた。朝夢現のときにテレビで内容を紹介していて読もうと思ったのだった。
漱石が教師を辞めて朝日新聞社に入社し作家専業になって書いた最初の作品だ。漢文がベースの流麗な表現がちりばめられていて美しさを感じるものの、現代人(ぼくのことだ)にとっては意味のとりづらい箇所があったりした。
小説を進行してゆくのは事件か問題だが、この作品の場合二つの問題が存在している。
ひとつめは甲野家の跡目問題、当主が外国で客死して、あとには大学で哲学を修めたあとニート状態の長男欽吾とその継母(謎の女と呼ばれる)そしてその実娘藤尾が残された。欽吾は自分は財産も家もいらないから二人にやるというが具体的には何も進んでおらず婚期を向かえた藤尾の行く末も定まらず二人はやきもきしている。
もうひとつは小野さんの結婚をめぐる問題。小野さんは文学を志して博士論文執筆中の将来有望な青年だ。彼は藤尾の家庭教師みたいなことをしていてお互い意識し合っている。他方、彼は世話になった恩人の娘小夜子と結婚する約束を過去(5年前!)にしていた。その恩人父娘が東京に出てくるという。裕福で才気煥発な藤尾と貧しく慎ましい小夜子。ドラクエファイブのフローラとビアンカみたいなシチュエーションだ。小野さんは打算もあって(というか小夜子とは5年間ほとんど接触がなく別の世界に暮らしていた)迷いもなくいったんはフローラ=藤尾を選ぶ。
これらの問題の中とも外ともつかないところで宗近さんという青年が活躍する。彼は甲野家の遠縁で欽吾の親しい友人でもあり亡き錦吾の父からは藤尾の結婚相手と目されていた。彼は終盤でまさにデウス・エクス・マキナの役割を担い、小野さんを小夜子と結婚するよう説得し欽吾を宗近家に引き取り欽吾を慕う自分の妹と結婚させようとする。そして、結果として藤尾は自死し、甲野家の家督は欽吾に復することになる。
宗近さんの行動ははまるで講談で悪辣な奸臣を懲らしめる正義の士みたいに描かれている。だが謎の女と呼ばれる継母や藤尾にはそこまでの非道い仕打ちにあう理由がどう考えてもない。継母は世間体が唯一の行動規範で、自分と実娘藤尾の安寧をはかりだいだけの凡庸な人間だ。謎などどこにもない。藤尾は今でいうところの恋愛資本主義者、恋愛市場の中で自分の価値を高めようとしただけだ。ただその当時はまだ恋愛市場がないため小野さんしか対象が存在しなかった。
藤尾の死を冒頭の伏線を利用して美しい文章で定められた悲劇みたいに描いているけど、欽吾の怠惰な性質、恣意的な宗近さんの行動(藤尾に袖にされた腹いせともとれる)、そして小野さんのあまりの意志薄弱さと不甲斐なさによる喜劇としか読めなかった。それをすべて継母と藤尾の責任に帰してしまうのミソジニーという誹りを免れ得ないと思う。
末尾の欽吾の日記に書かれた喜劇=生と悲劇=死の対立、そして「道義」を悲劇=死の側に属するものとおいているのはもともとぼくが考えていることでもあり納得できた(ぼくは生の側にも別の対立するシンプルな生きろという倫理があってそっちがより根源的だと思っている)。漱石の中には『草枕』にあらわれた個人主義的性向と同時にここでいう「道義」を奉ずる反近代主義的な性向という相反する傾向があるのはわかっていたが、その「道義」が「死」に裏打ちされていることが明確に書かれている貴重な作品で、そこに後年の「こころ」でなぜ「先生」が死ななくてはいけなかったかの答えがあるかもしれない。