北杜夫『夜と霧の隅で』ebook

夜と霧の隅で (新潮文庫)

子供の本から大人の本への移行期に読んだ本を何十年かぶりで再読してみた。『ドクトルマンボウ航海記』が気にいって小説に手を出したのだが、あの頃の自分にどれだけわかったか疑問だ。

短編4つ、中編1つからなる作品集。ほとんど内容を忘れている中で、作品の好き嫌いとか良い悪い関係なく、『羽蟻のいる丘』の陽が当たる高台の公園の黄色い風景がまるで実際にこの目で見たみたいに記憶に焼きついているだけだった。読み返して思ったのは全体的にとても硬質であること。描写のブレや弱さがない。いいと思ったのは『岩尾根にて』、『谿間にて』など山を舞台にした作品だ。山岳の美しく苛酷な自然を背景に、生と死、リアルと幻影のはざまが描かれている。

表題作の中編『夜と霧の隅で』は完全に忘れていた。ナチスの精神障害者、身体障害者、反体制派を人知れず連れ去って殲滅する「夜と霧」政策を背景に片田舎の精神病院で患者の状態を改善させて死から救い出そうとする医師の奮闘を描いている。表面的なヒューマニズムとか人間愛ではまったくないのだ。主人公の医師ケルセンブロックはもともと人嫌いの冷徹な研究者だったが、自分の勤務する病院に「夜と霧」がやってくるにあたり突然使命感に目覚めてしまう。結局それは効果をあげないどころかむしろ不必要な悲惨さをもたらすだけに終わり彼はまた研究室の孤独の中に戻っていくんだけど、その姿には静かな感銘を受ける。これは子供に毛がはえたころ読んでもわからなかっただろう。障害者施設で大量殺人事件が起きた今読むとさらに重みが感じられる。時の流れに耐えるすばらしい作品だった。

もう一作『霊媒のいる町』も過去の何事かにとらわれた男(それが何かは明かされない)の目に映る田舎町の空虚なたたずまいの描写が好きだ。