チェルフィッチュ『わたしたちは無傷な別人であるのか?』
作・演出:岡田利規/STスポット横浜/自由席3000円/2010-02-20 18:00/★★★
出演:山縣太一、松村翔子、安藤真理、青柳いづみ、武田力、矢沢誠、佐々木幸子
男の人がいます。その男の人は幸せな人です。という抽象的なところから物語?ははじまる。いきなり面食らうのが、この「幸せ」という表現で、おとぎ話の最後に意味のない結句として「幸せに暮らしました」のように使われる表現が、登場人物を特徴づけることばとして使われている。
徐々に語られていくのは「幸せ」な夫婦の生活の断片。今度入居する高層マンションの建設現場をみにいくとか、妻の後輩の女性を家に招いてディナーをふるまうとか、そのあとの二人きりの時間、セックスなどだ。こういう「幸せ」の描写の中に、ところどころ不安の要素がちりばめられる。数年前の無差別殺傷事件の記憶、公園で小学生の女の子たちを見つめる男、通りすがりの男に対する理不尽な怒り、そしてきわめつけは、二人の家に突然やってくる謎の人物。誰でもちょっとしたことで幸せになれる、幸せというのは簡単なことなんだという、妻に対し、彼は、ただすべての人があなたたちのように幸せになれるわけではない、幸せというのはたくさんの不幸せにとりかこまれているということを理解してほしいということを執拗にくりかえす。この場面がとにかく圧巻だった。
前作『フリータイム』では個人的な幸福を肯定した感があったが、今回はより大きな枠組みの中で否定している。2009年8月30日の衆議院選挙の前日、当日に舞台が設定されているのも、個人と社会とのかかわりが選挙くらいしかないという現状を皮肉っているかのようだ。
これまでのチェルフィッチュ作品同様、これらの物語は俳優によって演じられるわけではない。俳優は、自分たちの身体をさらしながら、語るのだ。普段着のような服装で、身体を奇妙に折り曲げたり、揺すったりすることで、観客は、演じられている何かではなく、生のままの身体そのものをみる。それでも、今までは、俳優は多かれ少なかれ語り手という役を演じていたような気がするが、今回は、語り手ではなく、物語を媒介する透明な存在になっていたような気がする。それがどういう方向にいくのか今後の活動が興味深い。