シュレディンガーの猫殺し

物理学者は思考実験の中で猫を半死半生の目に会わせたりして、残酷な人たちだと思っていたけど、リアルに猫殺しをしている小説家がいるようだ。

小説家の坂東眞砂子さんがエッセイの中で猫殺しを告白して、ちょっとした騒ぎになっている。自分の飼い猫に避妊手術をするのは彼らの「生」の経験を奪うことになる。だけど、子猫が野放図に生まれてしまっては飼い主としての社会的責任が果たせない。「人は他の生き物に対して、避妊手術を行う権利などない。生まれた子を殺す権利もない」が、どちらかを選ばなければいけない。坂東眞砂子さんはあえて後者を選び、生まれたばかりの子猫を崖下に投げ捨てて殺しているのだそうだ。

「生き延びるために喰うとか、被害を及ぼされるから殺すといった生死に関わることでない限り、人が他の生き物の「生」にちょっかいを出すのは間違っている。人は神ではない」とはいうけど、道徳的な判断を持ち出して他の生き物の「生」にちょっかいを出さないようにすることこそが、まさに神の視点なのではないだろうか。むしろ、人間が他の生き物の「生」にちょっかいを出すことが、自然の一部ともいうこともできる。

だから、ちょっかいを出すことそのものが悪いのではなく、その出し方が問われるのだと思う。二つの「間違ったこと」のうち仕方なくひとつを選んだなどというのはエクスキューズになっていなくて、子猫殺しはあくまで主体的な選択なのだ。

ぼく自身、子猫を殺すというちょっかいは最悪だと思うが、ただそれを声高に糾弾できるほどの正義がぼくらにあるとも思えない。実際、他の生き物に対するかなり迷惑なちょっかいの上にぼくらの生活は成り立っている。

たぶん、ぼくらにできることは、動きやすい服装で、崖下にたつことだ。野球の外野手のように上空を見上げて、放り投げられる子猫が地面にぶつかる前にうまくキャッチするのだ。それもまた他の生き物の「生」に対するちょっかいだけど、坂東さんもさすがに間違っているとはいわないだろう。