レイモンド・チャンドラー(村上春樹訳)『高い窓』
村上春樹訳のチャンドラーも5冊目。マーロウは裕福な未亡人マードック夫人の依頼で持ち去られた貴重なコインのゆくえをさがす。マーロウはマードック夫人の秘書的な役割をしているマールという若い女性の危うげな不安定さに目をとめる。人が立て続けに2人死に、マーロウの元に失くなったコインが送られてくるが、マードック夫人に電話するともうみつかったという。さらにおきる殺人に、過去のもうひとつ別の殺人の影が覆い被さる……。
3件も殺人が起こる割にはマーロウが受け身に徹していてストーリーの動きの少ない地味な作品だ。その代わり謎解きに破綻がなく、ミステリーとして完成している。まあ、個人的にはそのあたりの重要度は低くて、美しい文章、気の利いたセリフ、魅力的な人物が楽しめるのが、よいチャンドラー作品だ。
主要人物ではない一場面か二場面くらいしか登場しない脇役の存在感が際立っている。エレベータの操作係の老人パップ・グランディー、共産主義シンパの警備員、客に侮辱されてマーロウに八つ当たりするバーテンダー、そして黒人の少年の像。
マーロウの公正さの感覚も素晴らしい。とても柔軟で、マクロな正義感を振り回すのではなく、ミクロに自分がかかわりをもった人々がそれぞれに見合った処遇を受けられるようにもっていこうとする。それはマーロウが気に入った人物だけでなく、どうしても好きになれない人物に対してもそうなのだ。法は尊重はするけどときには無視もする。多大な労力や身の危険をはらってまでそうする原動力はなんなのだろう。その根本的な動機は語られない。
チャンドラーの作品を読むと完全にマーロウみたいに行動するのは無理でも少しでも世の中のいろいろなことをよい方にもっていきたいとは思ってしまう。学校の道徳の時間にチャンドラーを読むべきだ。