村上春樹『女のいない男たち』
初読以来8年たって再読したのは、映画『ドライブ・マイ・カー』をようやくみたからだ。完膚なきまでに忘れていて潔いくらいだった。
初読時には各作品の内容にはほとんど触れなかったので、今回は映画とからめつつ各編の内容に触れていこう。
映画のタイトルになった『ドライブ・マイ・カー』からは主要な登場人物やストーリーラインが採用されている。主人公の俳優家福(考えてみるとカフカを彷彿とさせる名前だ)、運転できない彼のためにドライバーを務めるみさき、家福の亡妻(小説では無名だが映画では音という名前が与えられている)のかつての不倫相手のひとり高槻。小説では家福の回想とみさきとの会話のなかで物語は静的に展開するが、映画では、音の生前から語りおこされ、死から数年後、家福は広島で行われる舞台公演を演出家として準備を進め、高槻がその主演俳優として参加するなかで過去と現在がオーバーラップする。
『シェエラザード』からは、何やら事情が隠遁している羽腹のもとを訪れて外部との連絡、買い物、そしてセックスを提供する女性が語る、同級生の部屋に忍び込む話が、音がかつてセックスのときに創作する物語として使われている。音の死によって未完に終わった物語の続き(これは『シェエラザード』にない映画の創作)を高槻が語るのだが、それは高槻と音の関係の告白であり、わだかまりの解消でもあるという複雑な効果を物語に与えていた。
『木野』からは、妻の情事をリアルに目撃するシーンなどが使われているが、もうひとつ、映画のクライマックスで家福がさとる洞察が含まれている。これについては後述する。
映画に直接関係しない作品についても触れておく。『イエスタデイ』は幼なじみであるがゆえに先に進めないカップルが、結局そのまま離ればなれになってしまうという話だが、そのことの責任が一方的に女性側に帰せられているように読める。『独立器官』は楽しくつかず離れずで女性と遊んできた52歳の男性が、真剣な片思いに陥ってしまい、静かに死へと突き進んでいく。表題作『女のいない男たち』はかつての恋人との死の報せをめぐる現代詩。
こうして読み返してみると各編を貫くテーマは明らかにミソジニー(女性嫌悪)だ。どれも構図は、不実な女性に翻弄される純真な男性で、いくつかの作品では明確なミソジニーの言説がはき出される。『独立器官』では登場人物の言葉として「すべての女性には、嘘をつくための独立器官のようなものが生まれつき備わっている」という言葉があるし、『ドライブ・マイ・カー』にもみさきの言葉として、妻が心を惹かれていたわけでもない高槻と寝たことについて「女の人にはそういうところがあるんです」というセリフがあり、それが家福のわだかまりに対するひとつの解決として作用する。特定個人についての洞察なら含蓄のある言葉だが、女性全体に広げるとミソジニーのそしりを免れない。そういう傾向は人口に膾炙してるが、マイノリティーに一方的に貼りつけられがちな悪印象であり、そのことへの反省なしに言及するのはいかがだろうか。
映画『ドライブ・マイ・カー』はこのミソジニーを意図的に避けている。家福のわだかまりを解消するのは『木野』の中の「傷つくべきときに十分に傷つかなかった」という自分自身に対する洞察だ。映画の中に登場するろうあ者と健常者の韓国人夫婦の存在も、ミソジニー的価値観の対照項のように感じられる(手話がすばらしい)。他の春樹作品と同様、単なる巫女でしかないみさきも、彼らに感化され主体的に生き方を選び取る存在として描かれている。
というわけで映画『ドライブ・マイ・カー』は原作に対するアンチテーゼでありその浄化であるという結論だった。