保坂和志『未明の闘争』
冒頭の段落の「私は一週間前に死んだ篠島が歩いていた」が衝撃的だ。死んだ友人が歩いていたというのは夢の中の話だと最初に明示されているのだが、「私は」がもたらす文法の破綻の衝撃が大きい。この不自然な「私は」は何度も何度も登場して、この小説全体に夢の中のような雰囲気を漂わせ続ける。
語られるのは、保坂和志本人をモデルにした星川高志という小説家の追憶なのだが、追憶の中から追憶が生まれ時間線を行ったり来たりする。追憶から他の追憶へはなんの前触れもなく突然切り替わる。『未明の逃走』というタイトルは追憶同士が主導権争いをする様を指しているのかもしれない。篠島の葬式とその後の昔の仲間とのシークルーズ、偶然再会したかつての同僚に連れていかれたキャバクラでの中国人の女の子との哲学的な会話、夜中に突然やってきた友だちアキちゃんが話すドストエフスキーのドッペルゲンガーをモチーフにした短編、若い恋人との山梨を経由しての横浜への不倫旅行、そしてなんといっても圧倒的なボリュームをしめるのは猫のことだ。それは死を抜きに語ることはてきない。この小説の中で猫と死は分かち難く結びついている。
猫の物語は最後に野良猫のある家系の話に至る。まるでガルシア=マルケスの『百年の孤独』のようにある家系の始まりから終わりまでが語られるのだ。ただその終わりをもたらしているのは人間が行う避妊手術でそこになんとも言えないやりきれなさがある。この猫たちと関わっているのは、状況からは「私」であるはずなのだが、終始「友達」という三人称があてられ、秋本というアキちゃんの名前が名指しされる。アキちゃんは実在の人間ではなく「私」の影法師のようで、アキちゃんが夜中に突然訪れていきなりドッペルゲンガーの小説のことを語るのも象徴的だ。
もともとこの作品を読もうと思ってKindleの専用端末を買ったのだった。それから幾星霜。文庫2冊に分冊されたらKindle版も分冊されていた。読み終わるの1ヶ月近くかかった。