夏目漱石『草枕』

草枕 (新潮文庫)

山路を登りながら、こう考えた。

智に働けば角が立つ。情に棹させば流される。意地を通せば窮屈だ。兎角にこの世は住みにくい。

という冒頭部分は、「棹さす」の意味が正反対に誤解されている(正しくは流れに乗るという意味)という話題を含めて、有名すぎるほど有名だが最後まで読み通した人はたぶんそれほど多くないと思う。というのも漱石の漢文に関する教養が遺憾なく発揮されすぎていて、まじめに意味をとりながら読もうとするとかなり大変なのだ。漱石と同時代の人たちはちゃんとついていけたのだろうか。

そういうわけで、挫折したまま何年も積ん読状態になっていた本書だが、春の訪れとともにふと読もうかなという気になってきた折も折、坂本龍一がニューアルバム “out of noise” の曲解説で、ピアニストのグレン・グールドがこの『草枕』のファンだったといっていて、“out of noise” 冒頭の “hibari"という曲は草枕の最初の方に出てくる雲雀のエピソードによるそうだ。せっかくなので、その部分も引用しておこうか。

たちまち足の下で雲雀の声がし出した。谷を見下したが、どこで鳴いてるか影も形も見えぬ。ただ声だけが明らかに聞える。せっせと忙しく、絶間なく鳴いている。方幾里の空気が一面に蚤に刺されていたたまれないような気がする。あの鳥の鳴く音には瞬時の余裕もない。のどかな春の日を鳴き尽くし、鳴きあかし、また鳴き暮らさなければ気が済まんと見える。その上どこまでも登って行く、いつまでも登って行く。雲雀はきっと雲の中で死ぬに相違ない。登り詰めた揚句は、流れて雲に入って、漂うているうちに形は消えてなくなって、ただ声だけが空の裡に残るのかも知れない。

どこまで書いたかわからなくなりそうだが、とにかくそういうわけでこの本を読もうと思ったのだ。

画工(えかき)を自称する主人公が、俗世間から逃れ、非人情の境地に遊ぶため、山奥の温泉にゆく。非人情というのは、いわば、当事者としての損得からおきる喜怒哀楽などの感情をとりのぞいてすべてを俯瞰するような心持ちのことだ。この非人情はかなり徹底していて、主人公の前に、不思議な魅力をもつ(今でいう「不思議ちゃん」)那美という女性があらわれて、幻惑されたり、裸をみてしまったりもするんだけど、そんなことではこの非人情は破られない。物語ははじまらないのだ。なぜなら、那美自身、世間から超然として、非人情の側にたつ人間だからで、ぼくは勝手に非人情のマドンナと呼んでいる。

そもそも、主人公は何から逃げようとしていたのだろうか。それは「人のひる屁の勘定をする」という言葉でお茶を濁されていて、明確には示されていないのだけど、久一という青年が出征するエピソードからして戦争(日露戦争)にまちがいないだろう。「人のひる屁の勘定をする」という表現に、戦時下のぎすぎすとした相互監視的な雰囲気が示されている。久一の木訥とした人柄に、戦地に流れる血のイメージが重ね合わされ、それと非人情の権化たる主人公が対置されている。そこに漱石の静かでありながら確固とした、非戦の立場が隠されているように思う。

さて、最後の最後、久一の出征を見送りながら、那美は、別れた元夫が旅立ってゆくところを偶然みかけて、今まで浮かべたことのないような「憐れ」の表情をする。人情が発動してしまいそうな、物語がはじまってしまいそうな瞬間だが、その表情を目にとめた主人公は、そのシーンを半ば強引にただ一枚の画にしてしまおうとする。それで、非人情は貫徹され、描かれなかった画が完成するのだ。

『三四郎』の美彌子もそうだったけど、漱石の描く女性は神秘的というか、理解不能な他者としてあらわれることが多い。荷風の描く、どこか母性的な女性像と対比するとおもしろい。

お勧め。