グレッグ・イーガン(山岸真訳)『順列都市(上・下)』
人間がソフトウェアになってコンピュータの中で生き続けるという設定はグレッグ・イーガンでは定番だが、これはその比較的黎明期を舞台にした物語。『ディアスポラ』では外部の1000倍の速度で流れていた時間が、この時代には逆に17分の1の速度で流れている。それも「生前」大富豪だった限れた人たちの話で、ふつうの人々(それでも自分をスキャンできるだけでかなり恵まれた階層の人々だが)は10時間まったく計算されないこともあるような状況だ。このあたりはこの本が書かれた1994年という時代のコンピュータ資源の状況が反映しているのかもしれない。
さてこの小説のテーマとなるアイデアは「塵理論」という奇想天外を通り越して荒唐無稽な理論だ。特にコンピュータなんてものがなくても、いったん意識やそれをとりまく世界が存在し始めれば、たとえば宇宙に散らばる塵の特定の時間、部分の配置を選んでいくことによって、継続可能だというのだ。それはないだろうというか、それがあるなら何でもありだろうと思ったが、第二部に入るとその世界エリュシオンは既成事実として存在している。
こうして彼らは(太陽が燃え尽きようが、宇宙が終わろうが続いてゆく)真の永遠を手にしたかに思えたが、思いもかけぬ破滅が待ちかまえていた。その破滅の原因も塵理論と同じくらい荒唐無稽なものに思えたが、だが、よく考えると、塵理論がありえたのなら当然ありうるだろうというものだった。後の作品になるが『万物理論』の「人間宇宙論」に近いというとヒントになるだろうか。
登場人物の一人ピーが最後に下す決断に妙にひかれる。
「だが、おれが作り出す人物たちは、しあわせなはずだ。いつもつねに。各人それぞれの奇妙な理由で。」……「それが、いまのおれのすべてでもある。それこそが、おれがおれであるということだ。だから、かれらがしあわせだとしたら、かれらはおれなのさ」