村上春樹『東京奇譚集』

東京奇譚集

それまでの人生で偶発的に負ってしまった瑕や歪を克服してより本来的な自分自身に回帰するというのは、村上春樹のみならず現代文学でよくとりあげられるテーマのひとつだ。村上春樹には特にそういうテーマの作品が多い印象があって、ひょっとしたら多かれ少なかれすべての作品にそういう要素が埋め込まれているのかもしれない。この短編集に収められているのもまさにその系統の作品だ。

『偶然の旅人』は、カミングアウトしたことが原因で姉と疎遠になっていたゲイの男性がいくつかの偶然の連鎖から姉と和解する物語。

『ハナレイ・ベイ』。息子をハワイの海で失った中年女性が毎年同じ時期にその場所―ハナレイ・ベイ―を訪れる。それはひきのばされた喪の行為なのだけど、人伝にきいた怪談話をきっかけに喪は完成し、その場所をあるがままに受け入れられるようになる。

『どこであれそれが見つかりそうな場所で』は、ここではないどこか別の場所への入口を探す男の物語だ。高層マンションの24階と26階の間の階段。そこにはさまざまな人々がゆきかい、静かな時間が流れている。

『日々移動する腎臓のかたちをした石』は、ミステリアスな職業の女性と恋愛をするがやがて去られてしまうというところが『国境の南、太陽の西』と同じだ。ただこちらは、父親からきいた「男が一生で出会う中で、本当に意味を持つ女は三人しかいない」という呪いのような言葉からの解放が、主人公の書く小説の中に出てくる「腎臓のかたちをした石」とパラレルに語られる。

『品川猿』。ときどき自分の名前を忘れてしまうようになった女性がカウンセラーのもとを訪ねる。実はその犯人は猿だった。猿を捕まえて名前を取り戻すことができたが、その猿の口から(当然人間の言葉を話すことができる!)彼女は自分の抱えているほんとうの問題をきかされる。それは名前と同様に自分自身で引き受けなくてはいけないものなのだ。

個人的には『品川猿』と『どこであれそれが見つかりそうな場所で』が気に入った。階段の踊り場のソファーで猿の隣に座り、何も考えずに時が過ぎてゆくままにまかせる。そんなことをしたくなった。