みんなのナショナリズム

ナショナリズム【nationalism】 既得権を保護する運動の一つ。しばしば道徳や規範を偽装する。ただし、その道徳を守るべき対象は常に自分以外の誰かである。

いささか挑発的に書いてしまったけど、ぼくがナショナリズムやそれを奉ずる人々に対して持っている印象はおおむねこんなところだ。もちろん既得権を守ろうとするのは自然なことだし、必要な場合もあるだろう。でも、そういう類のものだということは意識しておいた方がいい。

なぜ、今更こんなことを書いているかというと、何気なくネットを巡回していたら、魂がぬけてしまうような情けない文章をみつけてしまったからだ。家族が強制送還されそうなフィリピン出身の女子中学生のブログに、日本に帰化したフランス人女性を自称して、反日勢力に利用されているだけなので、フィリピンに帰った方がいいと奨める書き込みだ。九分九厘日本人のいわゆるネット右翼の仕業で、よくこういうこと考えるよなと、あきれはてて逆に感心しそうになった。

思い出すのが数年前のイラク人質事件の時のことだ。人質だった人たちがどうのこうのというよりも、彼らを見殺しにさせるために、よってたかってデマや憶測をあちこちにばらまいていた人たちを許すことができなかったし、いまだにトラウマのように心に残り続けている。

まあ、そんなことでナショナリズムを引き合いに出すのは、まともなナショナリストの人にとって失礼なことで、一緒にするなと怒られてしまうのは重々承知だが、それほど過激とはいえないまでも、彼らの判断の背後にどうも妄想めいた思い込みがあって、それが上記に挙げた卑劣な行為をした人々と共通しているような気がして、勝手に危惧しているのだ。

それ以来ずっと無力感を感じてきた。ぼくは基本的に個人主義者だけど、それを支えてくれるものが、まわりに何もないというのをひしひしと感じる。欧米には、幻想半分かもしないけど、自立した個人が集合して作る社会という感覚があって(あとキリスト教の存在も大きいと思う。日本でも仏教がそういう役割を果たしてもいいと思うのにすっかり骨抜きにされてしまっている)、それがリベラルな価値を担保してくれるのだけど、日本では、世間という階層的なクラスターが不透明に結び合わさっているだけで、社会の存在感が希薄だ。正しさを担保する公的なものはほんとうに国家(ネイション)くらいしかないのだ。

だから、ナショナリストが単純に肯定的に語れるのに対して、どうしてももってまわった現状否定的な語り口になってしまう。そこを、大人の風格で鷹揚に迫られると、自分が悪かったような気分にもなってくる。

夏目漱石は、『私の個人主義』の中で、個人主義の淋しさについて語っている。

「個人主義は人を目標として向背を決する前に、まず理非を明らめて、去就を定めるのだから、ある場合にはたった一人ぼっちになって、淋しい心持がするのです。それはそのはずです。槙雑木でも束になっていれば心丈夫ですから。」

淋しいといいながら、「槙雑木」という表現には反骨の心意気を感じる。

ちなみに漱石の言葉を借りると個人主義というのはこんなこと。

「党派心がなくって理非がある主義なのです。朋党を結び団隊を作って、権力や金力のために盲動しないという事なのです。」

いい定義だ。

そして、同時にこうもいっている。

「ただもう一つご注意までに申し上げておきたいのは、国家的道徳というものは個人的道徳に比べると、ずっと段の低いもののように見える事です。元来国と国とは辞令はいくらやかましくっても、徳義心はそんなにありゃしません。詐欺をやる、ごまかしをやる、ペテンにかける、めちゃくちゃなものであります。だから国家を標準とする以上、国家を一団と見る以上、よほど低級な道徳に甘んじて平気でいなければならないのに、個人主義の基礎から考えると、それが大変高くなって来るのですから考えなければなりません。だから国家の平穏な時には、徳義心の高い個人主義にやはり重きをおく方が、私にはどうしても当然のように思われます。」

久しぶりにこの文章を読んで、勇気をもらった。