グレッグ・イーガン(山岸真訳)『しあわせの理由』

しあわせの理由 (ハヤカワ文庫SF)

1961年オーストラリア生まれのSF作家グレッグ・イーガンの日本独自編集の短編集。翻訳は、こういうSF作品によくあるいまひとつな翻訳のような気がするけど、作品のセレクトはすばらしい。

SFという言葉のScience Fictionのほかのもうひとつの意味、Speculative Fantasy(思索的ファンタジー)という呼び方がふさわしい作品たちだ。テクノロジーが現在より進み、人の精神の領域まで踏み込むようになったときに、人間性、人らしさというものが今のままでいられるのか、それとも大きな変化を強いられるのかというのが共通するテーマだと思う。

『適切な愛』は瀕死の重傷を負った夫の再生のため、彼の脳を胎内に宿さざるを得なくなった女性の話。再生後に果たして今まで通りの愛情が保てるのか。

『闇の中へ』は、光を含めて物質は前方にしか進めない(つまり前は闇に閉ざされている)ワームホールの中から巻き込まれた人たちを助け出す「ランナー」の活躍を描いた作品。前にしか進めないくせに前が見えないのは、まさに時間と同じなのだ。

『愛撫』は頭部が人間の女性で体が豹というキメラとともに奇妙な儀式に参加させられるという物語。

『道徳的ウイルス学者』は人が道徳的は振る舞わざるを得なくなるウイルス(同性愛および配偶者以外の異性と性交をすると即死する)を開発する狂信的な学者の話。彼はコールガールの女性に喝破される。「あんたは自分のしていることに、ほんものの信念をまるでもっていない。自分の選択にどうにも自信がないから、自分が正しいと自分に証明するだけのために、ほかの選択をしたあらゆる人に地獄の業火をささげる神を必要としている」。その言葉はもちろん彼にはとどかない。

『移送夢』。脳の中身までもコンピュータ上に転送してシミュレーションすることにより事実上永遠の命を得ることが可能になった時代。体の衰えから転送を決意した男は、その際「移送夢」という夢をみることになりますよと注意を受ける。それは主観的にどれだけ長い間続くかわからないという。

『チェルノブイリの聖母』はテクノロジーの進んだ未来を背景にしたハードボイルド小説。そういう時代における宗教の形。『血を分けた姉妹』は同じ遺伝子をもつ双子の姉妹の生死がわかれたことから明らかになる不正。

『しあわせの理由』。脳腫瘍の手術の結果、脳の幸福を感じる部分が死んでしまい半分廃人のようになった男が、人工的に脳神経を植えつける手術を受ける。その結果、彼は自分がどんなものを好きになり、どんなものを嫌いになるか自分で選ぶ能力を与えられた。そんな彼の新たなちょっと苦い人生の旅立ち。

一番よかったのは『ボーダー・ガード』。死が克服された後のはるか未来の物語だ。その中では、死があることによってもたらされるさまざまな歪みが昔話として語られる。死についての嘘を築き上げる宗教。死と苦悩が魂を鍛えるために必須なものと主張する哲学者たち。

ああ、死なんてほんとうになくなってしまえばいいのに。いつかはそんな時代がくるのだろうか。せいぜい長生きをすることにしよう。

★★★★