保坂和志『プレーンソング』
薄い雲のようにぼんやり広がった幸福感を描いた作品。
恋人と同棲するつもりが別れて、一人で2DKの部屋に住むことになった三十代はじめの男が主人公。場所は西武池袋線の中村橋で、おそらくこの具体的な地名も、この小説を形作る重要なファクターのひとつだ。この部屋には、それぞれの事情と怠惰と偶然から、二十代そこそこの若い男女のカップルと、一度は映画を志したものの持ち前の無気力で挫折した二十代半ばの男が住み着くことになって、四人の奇妙な共同生活がはじまる。
共同生活というとある程度濃密な関わり合いや、どろどろした人間関係を想像してしまうけど、彼らの間にはそんなものはなくて、それぞれ勝手なことをしたり、どうでもいいようなことを話したりする均質な時間が流れていく。
多分この作品の中の時代背景は作品が書かれた1990年で、バブルのはじける直前くらいだ。主人公も一応会社に通ってはいるけど、昼ごろ出社して喫茶店にいりびたっているような雰囲気だ。若いカップルは働いてないし、映画志望だった男も一応仕事はもっているものの、半ばやめることを考えている。それでもなんとかやっていけてしまうというだけでなく、そういう状態に何ら疑問や不安を持つ必要もない時代だった。いや、そういうのがいつまでも続くわけがないとわかっているからこそ、よけい楽しかったのだと思う。
一見、具体的な場所、時代を描いたリアルな作品のようだけど、実はどこにもないユートピアを描いたおとぎ話だと思う。後半、ドラマチックな物語や事件を拒否して日常的な風景をビデオに収め続けているゴンタという映像作家の卵がでてくるのだけど、多分この小説は、彼の撮った映像のひとこまひとこまをつなぎあわせたものなのだ。ドラマはその映像のフレームの外側にありうるのだけど、ただ淡々としているだけではなく、この小説はそういう凡庸なドラマを拒否する頑固さを秘めていると思う。
この世界では、季節はめぐるけど時間は流れない。薄ぼんやりとした永遠の今が閉じ込められている。
★★★★