保坂和志『この人の閾』
思考というのは並列的で、矛盾を含んでいるのに対し、文章は直列で、整合性がとれていなければならない。ふつう思考から文章を変換するときは、小さなもの余計なものは省いて、できるだけコンパクトにしようとするのだが、保坂和志の場合には、一見意味のないような思考の流れを切らずにそのまま文章に埋め込もうとしている。そんな文体だ。美文か悪文かで分けると悪文で、ある意味大江健三郎の文と似ている。
内容は、何人かで街を歩いたりしながら、目に入るものについてたわいもないことを話したり考えたりしているというもの。ふつうは会話の中に人間関係がうかびあがってくるのだけれど、この本の中の作品では、それぞれの人物が個人として周囲の事物に感じていることが浮かび上がってくる。それはよくみるととてもおもしろいものなのだ。
表題作は芥川賞をとっている。その割にはほかの作品と比べて平凡な印象もあるのだが。舞台は小田原の民家。37歳の「ぼく」が今は子供が二人いるふつうの主婦になってしまった一年上の女性の先輩、真紀さんに会いにいく。と書くと背徳の香りがしてしまいそうだが、そういう香りは完全にシャットアウトされている。真紀さんは最近『失われし時を求めて』とか哲学の本とか時間のかかる本ばかり読んでいるそうだ。でも、そうして頭の中に保存されたものは、感想を残すこともなく、いずれあとかたもなく消えてしまう。『三四郎』の広田先生が「偉大な暗闇」とよばれていたことを思い出した。
他の作品は、表題作よりちょっと前に書かれたものだ。『東京画』は環七近くのXXという街と書いてあるが、おそらく代田橋だろう。死んだ猫がかわいそうだった。『夏の終わりの林の中』は白金の自然教育園。『夢のあと』は鎌倉。
★★★