ポール・オースター(柴田元幸訳)『闇の中の男』

闇の中の男

年老いた男が閉ざされた部屋の中でもうひとつの世界の物語と向き合うという、前作『写字室の旅』と対になる内容。大きな違いは、自分の名前を含めて記憶をなくしてどこともわからぬ部屋に閉じ込められるという抽象的な設定だった前作とちがって、今回はリアルなこと。

主人公オーガスト・ブリルは72歳。妻と死に別れ、車の事故で脚を怪我して、今は娘と孫娘と3人で暮らしている。不眠症に悩まされる彼は夜な夜な頭の中である物語を綴る。『写字室の旅』で主人公が読まされたのと同じくそれは戦争の物語だった。ただしどこかわからない国ではなくアメリカの戦争。それは911がなかったかわりにアメリカが内戦となっているパラレルワールドの物語だった。こちらの世界から突然あちらの世界に移動させられたブリックという奇術師は、奇妙な指令を受けてまたこちらの世界に送り返される。内戦の大元であるブリルという老人を殺せと命令されるのだ……。

互いに入れ子になる物語構造。昔のオースターならこの方向で突っ走っただろう。だが、この内側の物語は唐突におわり、ブリルの家族の物語に焦点がうつっていく……。

悲惨さ、残酷さの向こうにほんのり希望が感じられる作品だった。あと、途中、小津安二郎『東京物語』の内容が紹介されるんだけど、あらためていい映画だなと思った。そう、これも家族の物語だ。