Arthur Miller "Death of a Salesman"
読もうと思った直接のきっかけはこの前DVDでみて感動した映画 “Synecdoche, New York” の中で主人公 Caden がこの作品を演出するシーンがでてきたりもして、演劇好きとしてこの古典的な作品の内容を把握しておいた方がいいと思ったからだ。もちろん最初は日本語で読もうと思っていた。英語版を選んだのは、戯曲でセリフが中心なら英語でもすらすら読めると思ったからだ。もちろん、セリフが中心な分だけかえってニュアンスをとるのが難しかったり、ト書きも実際かなり緻密だったりして、思ったほど簡単ではなかったが、とにかく最後まで読み通すことができた。
タイトル通りあるセールスマンが死にいたるまでの話。彼の名は Willy Roman、63歳だ。もう引退してもいい年齢だが、家のローンはまだ残っているし、その他の支払いに悩まされている。二人の息子は一応独立して妻 Linda と二人暮らし。長男 Biff は長い間職が定まらず、今たまたま家に帰ってきていて、次男 Happy も同じ部屋に寝泊まりしている。Willy は固定給がカットされ歩合給だけになっている。心労からか精神の平衡が失われつつあって、車の運転ができないので、社長にニューヨーク勤務にしてくれないかと申し出るが、逆に解雇を申し渡される。Biff は Biff で昔世話になった人に自分を売り込もうとするが、向こうは Biff を覚えてすらおらず、失意のあまりつい万年筆をくすねて出てきてしまう。結局、Willy は家族に保険金を残すため自ら死を選ぶ。
作品の中に “Death of a Salesman” は二度登場する。一度目は、Willy がセールスマンを生涯の仕事決めるきっかけとなった伝説的な老セールスマンの死。80代で死ぬ瞬間まで現役だった彼は、電車の中で亡くなり、その葬儀にはたくさんの関係者が列をつくったという。もうひとつが Willy 自身の死。彼の夢想とは異なって、その葬儀に参列したのは家族と隣人だけだった。
これまで書いたことからはリアルな社会派の演劇を想像してしまうと思うが、実は半分くらいのシーンが Willy の幻想/回想シーンで、それが現実の場面と交錯するとてもシュールな雰囲気の中進んでいく。
そういう目に見えてしまうような幻想とは別に、Willy はずっと幻想の中を生きてきたように見える。つまり商取引というドライな関係を、好く/好かれるという愛情のやりとりであると錯覚したまま生きてきた。そしてその愛情の取引の中では、自分が一流のセールスマンだと信じていた。あるところまでその錯覚は通用したが、それが通用しなくなってしまった。だから精神の平衡がくずれたのだ。
対比するような存在として Willy の 兄 Ben がいる。彼はアフリカでダイアモンド鉱山をほりあて、大金持ちになった。アメリカ特有のフロンティアスピリットを体現するような人物だ。Willy は彼のさそいを断って、セールスマンを続けることを選んだ。ただし、Willy はそういうマッチョなものは拒絶していない。むしろ、隣人 Charlie とその息子 Bernard のひ弱さやドライな生き方は軽蔑している。何度となくBernard の陰口をいい、Charlie からの仕事提供の申し出ははねつける。ある種の反知性的態度がそこには見られる。それが Biff の勉強の軽視につながり、スポーツによる大学への推薦入学が決まっていたにもかかわらず、高校の落第そしてその後の人生の転落につながってしまったわけだ。この作品は、そういうアメリカ特有の人間像への愛憎入り混じった批判のようにも読めた。