小栗虫太郎『黒死館殺人事件』
はるか昔、半月ばかり入院していたとき読書だけが楽しみで、本があれば何もいらないとまで思ったが、そのとき唯一読めなくて断念したのが本書だ。
気を引き締めて再挑戦してみたが、あれ読める。なんか肩すかしを喰らったような感じだ。その間にいろいろ読書遍歴を重ねたのでそれで読書力が向上したのか、または真剣に意味をとろうとしなくていい箇所を判断する能力が獲得できたせいかもしれない。ただ状況やトリックがあまりにもあっさりしていて読んでもよくわからないのは困った。
1934年に発表されてから日本ミステリーのn大奇書(n=3,4,…)と呼ばれる中には必ず入る本書。奇書というのはもともとすぐれた書物ということらしいが、本書の場合はその奇怪さがあまりに際立っているがゆえに本来の意味の奇書といってもいいような気がする。
歴史的な因縁をもつ黒死館と呼ばれる隔絶された洋館で凄惨な連続殺人事件が発生する。それを名探偵法水麟太郎一行が解決しようとするという通常のミステリーの体裁を一応とってはいるが、読んでいるとトリックとか犯人が誰かということはどうでもよくなってくる。
一年半前に当主降矢木算哲が謎の自殺を遂げてから、17歳のひとり息子旗太郎、ヨーロッパ各地から子供の頃呼び寄せて弦楽四重奏団を結成させた4人の男女(女性3人男性1人)、小人症で料理長の易介、執事の田郷真斎、図書係久我鎮子、秘書紙谷伸子らが屋敷から一歩も出ない生活を送っていた。そんな中弦楽四重奏団のひとりダンネベルグ夫人が毒殺される(「夫人」といっても過去も現在も結婚はしていない。それどころか彼らはAKBみたいに恋愛禁止なのだ。弦楽四重奏団の他の二人の女性もなぜか「夫人」と呼ばれる)。支倉検事と熊城捜査局長に依頼され捜査を開始する法水。彼らは、死体が光を放ち、こめかみに奇妙な紋様が浮き出ているのを発見する。おまけに夫人の書き遺したダイイングメッセージにはテレーズという名前があった。それは算哲の亡き妻を模してつくられた等身大の自動人形の名前だった。
この毒殺を端緒とするこの館で発生する事件は異常なんだけど、さらに探偵の法水もあまりにも超人的すぎてほとんど異常の粋に近づいている。ささいな音やものの位置の変化から事件の発生に気がついたりトリックや犯人を解明するんだけど、精細すぎてそれはさすがに実行不可能だろうというものが多い。しかもそのトリックや犯人は、次の事件の発生であっさり否定されたり、自らあれは真犯人を油断させるための罠だったとかいったりする。西洋の文学、宗教、オカルト、歴史書からの引用、それも有名な古典ではなく、知る人ぞ知るというものだが、それを訊問の途中で脈絡もなく引用する。相手がそれに対してちゃんと返歌のように返すのが驚きだ。法水はその反応から相手の無意識を読み取ることができるという。
ここまで超人的な推理を発揮しながら、結局のところ、惨劇はまったく押しとどめることができないまま繰り返されてしまう。最後の最後で一応犯人を指摘するものの法水の完敗は否定できない。それでも負けたそぶりはまったくなく、自尊心を保ったままなのが逆にすごい。
ところで。私鉄T線の終点、北相模、大山街道(国道246号線)沿い、神奈川県高座郡葭苅(架空の地名)ということが作中に記されているが、黒死館のある場所がいまひとつわからない。私鉄T線を無視してよければ、今の大和か海老名あたりということになりそうではあるが、それだと平坦な地形なので作中で描写されているスコットランドの丘陵のような風景ではないはずだ。もっと西の丹沢のふもとのほうかもしれない。