ポール・オースター(柴田元幸訳)『幻影の書』
息子二人と妻を航空機事故で一度に亡くしたデイヴィッド・ジンマーは、ヘクター・マンという男のサイレント時代の映画との出会いにより、破滅から救われる。ジンマーは、全米各地やヨーロッパに散らばったヘクターの映画のコレクションを訪ね歩き、一冊の本にまとめる。ヘクターは60年以上前に突然行方不明になったままだった。ところが、ある日、ヘクターの妻を名乗る女性から手紙が届き、ヘクターはまだ存命であり、あなたに会いたいといっているので、招待を受けて欲しいという。ジンマーは疑心暗鬼のまま何度かやりとりが発生するが、ある雨の夜、帰宅する彼を、顔にあざのある美しい女性が待ち構えていて、すぐいっしょにヘクターのところにきてほしいという……。
うわあ。めくるめくストーリーに登場人物ばかりでなく読者もまた翻弄されてしまう。
この小説の登場人物はみな「無」に魅入られている。妻子の死からなかなか立ち直れず自己否定的な行動を繰り返すジンマー、罪の意識から自分とともに自らの作品を闇に葬り去ろうとするヘクター、そしてその意志を彼自身より忠実に体現し、彼女自身の生そのものにしてしまったフリーダ。
ポール・オースターはユダヤ人、それもキリスト教の神もユダヤ教の神もどちらも信じていないユダヤ人だと思うけど、彼の作品にはまぎれもない敬虔さがある。「無」という神に対する敬虔さだ。それはあらゆる信仰のなかでもっとも正統的な信仰かもしれない。
その「無」の神に捧げるようにこの小説ではいくつもの死が描かれる。そして、最後の最後には描かれることのない死。でも最後の言葉は希望、失われたはずのヘクターの作品が発見されることに対する、希望だ。
そして、それはある意味現実になった。ポール・オースター自身が脚本、監督をつとめて、小説中でヘクターの幻の作品として登場する『マーティン・フロストの内なる人生』が実際に映画化されているのだ。(Trailer)。日本では未公開でDVDも発売されていないのが残念。
お勧め★