内田樹『ためらいの倫理学 戦争・性・物語』
いつも大きな示唆をいただいている内田樹氏の著書をはじめて読んでみた。
長さや硬さの異なるさまざまな文章が収められているが、あとがきに書かれているとおり、「自分の正しさを雄弁に主張できる知性よりも、自分の愚かさを吟味できる知性のほうが、私は好きだ」というスタンスは共通している。つまり「正義」というものの苛烈さはそれ自体有害であることを自覚する「ためらい」という立場だ。
その中で特に読み応えのあるのは、『戦争論の構造』と、『ためらいの倫理学』で、ページ数も多い。
前者は九十年代にいくつか登場した「戦争論」と呼ばれる言説について述べている。「戦争論」の元祖クラウセヴィッツによれば、戦争における国民の役割は、「憎悪と敵意」の供給だそうだ。「もっとも危険な暴力の培地は、相手に対する悪意や敵意でなく、自己の無垢性に対する信憑なのである」ということで、戦争について分析的に語っているはずの「戦争論」も、原因の究明をつきつめることによって、「憎悪と敵意」を供給する可能性がある。
そこで、とりあげられるのが、加藤典洋『敗戦後論』だ。ぼくは未読だが、かなり議論を呼んだ著作らしく、何度となくその名前を目にしている。否定的な文脈でとりあげられることの方が多いようだが、ここでの内田樹氏の「読み」からすると、それなりに納得できるもののように思われる。つまり、敗戦という現実は、本来個人のうちに「ねじれ」という感覚をもたらすはずなのだけど、誰もそれを引き受けようとせず、矛盾を二つに分割して二つの薄っぺらな陣営が別々に担うようになった。こうして、対話を拒絶し、合意形成を求めない体制ができあがり、日本人は「低能」になってしまった。これを再統合して、分裂を内在させた「わたし達」を立ち上げるためには、さきの大戦の戦死者を「汚れた死者」として汚れたまま弔う、アンティゴネ的な「喪」が必要だ、というのが加藤の論で、内田樹氏はそこに、「裁き」と「赦し」を同時に果たしうるような物語の可能性をみている。
本のタイトルとなった『ためらいの倫理学』は、アルベール・カミュ論。カミュの思想には、ある種の平等性のもとに暴力、殺人を許容するモラルと、それを決して正当化しない「正義のためらい」という相矛盾するものがあったことを、『異邦人』、『ペスト』という二つの作品、および、レジスタンスとしてナチスとその協力者と戦ったあと、かつての敵の助命の嘆願に加わるという行動の中からみてとっている。
★★★