小川洋子『密やかな結晶』

密やかな結晶

小川洋子は初読。主人公の女性のメンタリティを反映しているのかもしれないが、淡々としたはかなげな文体だ。

ひとつひとつ、ものが消滅してゆく島が舞台。「消滅」というのは物理的になくなるのではなく、人が認識できなくなることを意味している。たとえば薔薇が失われるというのは、薔薇の花がもっていた意味合い(きれいだとか、いい匂いだとか、とげがある……)やそれにまつわる記憶がなくなることだ。それだけでなく、人はそういう意味がないものが自分の周囲にあることにとてつもない違和感を感じてしまうので、自ら進んでそのものを消し去ろうとする。秘密警察と呼ばれる(カフカ的な)官僚組織がさらに追い打ちをかけるように、組織的に消滅を推し進めてゆく。そうして、結果的にはそのものは物理的に消滅するわけだ。

まれにこの消滅という現象を免れて、ものの記憶をきちんと保ち続ける人々がいて、彼らは秘密警察から追われている。主人公である小説家の母親も、過去に、秘密警察に連れ去られて、数日後死んで戻ってきた。だが、彼女はそのことをことさら恨んだりしてはおらず、すべての消滅をただあるがままに受け入れている。そんなある日、彼女は、担当の編集者が記憶を保ち続ける人であることを知り、自分の家にかくまうことにする。

その現実の物語と、彼女が今執筆中の小説(声をなくしたタイピストの物語)がオーバーラップするように進んでいく。現実の世界では、どんどん消滅が進行してゆき、ついには小説までもがなくなってしまうのだが、それでも奇跡的に小説は完成する。そして、その終わり方とまさに同じような形で現実世界の物語も終焉を迎える。最後は一瞬の光と永遠に続く暗がり。

結局、すべては謎のまま残されるし、ストーリーも消滅へむけて下るだけで起伏に乏しくもあるが、全編を貫く喪失感にちょっとだけ甘美なものを感じる。ひょっとして、秘密警察が、消滅を遂行するのは、この甘美さのためなのかもしれない。

★★★